ブログ「いらけれ」

昨日の日記は、あんまり上手くなかったから良かった、上手くやるのはつまらない、上手くやるとかわざと下手にやるとかではなく、そういうのとは違った基準で生きる。

毎日、更新が厳しいと感じてしまうのは甘い人間だからで、修行僧のような心持ちでいられれば、厳しいも何もなく、それをする自分になりたいと思う以上は、それをするしかないが、一足飛びにストイックになれるはずもなく、今日もユーチューブを見ている。

ユーチューブで何を見ているかというと、最新のオープンワールドゲームを使って、例えば、ストーリー上のイベントでは倒せないことになっている敵を、あらかじめ仕掛けておいた罠を使って倒したらどうなるか、といった"検証"を行っている人の動画で、やっていることが学者の研究みたいで面白いのだが、ネタとかギャグの感じが広く紹介できるものではなくて、そういうのが好きな人もいるのだろうし、それで付いているファンもいるのだろうから悪いとは言わないけれど、やっぱり、もっと大きくて広い場所へと通じる扉は、閉じてしまっているよなあと思った。


ういちの一人舟 第1回【ボートレース江戸川編①】

競馬場には行ったことがあって、野球場もサッカー場も。大きい施設はいつ行ってもワクワクする。ボートレース場の水面は、キラキラと輝いているだろうという憧れがある。そういえば、何かのイベントからの帰り、電車に揺られていた僕の前にボートレース多摩川の広告があって、それを見て、行ってみたいなあと思ったんだ。それで、この前の日記に書いた理想の休日を過ごす男はボートレース場に行った。
ボートレース場を書くにあたって、ユーチューブで動画を探して、参考資料のつもりで見始めた「ういちの一人舟」が面白くて、最近はこればかり見ている。番組と笑いの温度が丁度良くて。あと、ちゃんとギャンブラーの生態も映し出されていて。負けた後に、そうか、こう考えれば予想出来ていた、勝てたはずだと思ってしまうあたり。そう思えなかったから負けたというのに。そして次もそうなるとは限らないのに、これを踏まえれば勝てると思ってしまうのはなぜなのだろう。不思議ね。とにかく、ボートレースを趣味にしたい、ボートレース場に行ってもつ煮を食べたいと、そう思い始めている今日この頃だ。ボートレース場は日本各地にあるみたいだから、それを回りながらご当地の名物を味わうのも良いね。そういう日記にしてしまうのも良いだろう。まずは一度行ってみよう。人生は楽しい、そうやって生きれば。

ブログ「いらけれ」

世界から祝福されているという感覚が、世界への信頼を生んでいて、どれだけ暗い夜道にいても、常夜灯のように明るくしていられるのかもしれない、僕は。無駄に明るくて申し訳ないけれど、僕にとってはありがたいことで、この陽気がなければ死んでいた気がする。冷たい、冷たい道端で。自分の喜びよりも、隣にいる誰かの喜びの方が喜べるのは、心のどこかがすでに満たされているからなのだと思う。誰もが誰かの幸せを祈る世界は、運よく祝福された私たちが誰かを祝福して作る。

人付き合いのなかで、失敗したーって分かることは少ない(この前の日記にも書いたけど、知らない内に心の扉を閉められていることの方が多い)。知らなければ辛くはならないから、それで助かっている面もあって、でもこの前やっちゃって、あーやっちゃったってことが明確に伝わってきて、後悔先に立たずという言葉を噛みしめた。でも、そりゃ失敗するし、これからも失敗するに決まっている、愚鈍だから。自分を許しているのではなくて、愚鈍ゆえに犯してしまう失敗を、まずは認めて、自己正当化しないことしかできないのだから、そうする。『なぜあの人はあやまちを認めないのか』を読んだ効果が出ている気がする。ツイッターで素人の意見を読んでいる暇があったら、この本を読めばいいのにって思う。放言に、僕は冷たい目をしている。

横になって、壁に面と向かって、それから目を閉じた。それまで起きていた彼は、厚手の毛布のように重たい静けさを、往来するトラックが少しずつ削っていくのを感じた秋の早朝に<内側から燃える燃える燃える。この美しい朝に、俺は街に火を放つ。具体的に言えば中学校を焼く>と考えていた。彼は切迫し続けていたから、校舎の階段の緑色のタイルが、真っ赤に変色していくイメージを思い浮かべたのは初めてではなかったし、最後でもなかった。彼は後に、二年以上にわたって登校を拒否していた学校を、登校しないままに卒業した。つまり、火をつける必要はなかったのだ、その日も、朝焼けが街を焼いていたのだから。

文章の、あるいは描写の自由を、僕は今から行使して、散歩をしていた僕の横を通り過ぎた自転車に乗った男の背中には「Uber Eats」と書かれた箱が、時代を帯びた店構えの寿司屋の戸には貼り紙があり、昭和30年に開いた店だが令和元年12月に閉店したと書いてあった。
この二つは確かに同じ日に見た光景だ、けれど、見た場所や時間は遠く離れていた。別の二つを一つにした。一枚の写真に、別の場所と時間を収めた。文章にはそれができた。

ブログ「いらけれ」


ということで、『東村山で「バトルライン」をやる会』のフォームを作ってみた。「奇跡のうた」に書いた、鈴木謙介a.k.aチャーリーの「ホストになる人に重要な力量が一つあるとすれば、ただ、めげないこと」という言葉を胸に。人が集まっていないのを他人に見られるのが嫌だとか、どう思われるんだろうというのは自意識過剰で、僕のことなんて誰も気にしていないのだから、まず始めてしまえば、そして、集まるまで続けてしまえば良いのだと、分かっていても邪魔をする自意識を、出来る限り手放していきたい……というのならば、ツイッターにも流すんだよね?うーん、それは恥ずかしい。

今月の「小説的思考塾」に行って、それからずっと、書くことについて考えている僕は、とても粘着質だなあと思う。それ自体が情報、たとえば金を儲ける方法とかではまったくない文章(描写)は、言ってしまえば全然いらないのだが、しかし、全然いらないのが面白いのだという話が、こうやって書いている僕の背中を押している。あと、書くことによって自分が充実できるという実感が重要で、一生小説を書くような自分になろうと思っていた方が良いという言葉は、胸に刻んで帰ってきた。
文章には意味が必要だと思われているがそんなことはない、意味のために犠牲にしているものがある、音楽や絵や写真のように書く、身振りは意味ではないのに伝わる、読み手に伝えることが大切なのだから…。ただし、描写にとって大事なのは名詞や動詞の量であって、形容詞的なものではないということが繰り返し話されていたのだが、これについてはまだ理解が及んでいない。名詞や動詞の量として、風景を見るとはどういうことなのか、描写を書き続けるなかで、その真意を掴めたらいいなと思っている。

そうそう、東久留米で遊んでた時、目当てだったカフェに入れなかったんで昼飯をどうするかってなって、来た道を戻って、駅のところのパンケーキ屋(なのか?)に男二人で入った。アメリカを意識したお店らしくて、シンプソンズの絵とかバックトゥザフューチャーのポスターとかが飾ってあって、デカいクリームソーダはめちゃくちゃ甘くてビビったが、チーズのかかったフライドチキンの乗っかった甘くないパンケーキは美味しかったので良かった(机のメープルシロップをかけて、甘じょっぱくしたのも美味だった)。一人じゃ絶対入らないお店だったから、やっぱり自分の世界から出るためには、人といることが大切なんだなって思った(遠回しに、「バトルライン」をやる会への参加を促している)。

ブログ「いらけれ」

4桁。引き続き、記憶に残っている当日記の文章を募集中です(そんなのないよって声が聞こえる)。同人誌を作る際に、参考にいたしますので、何卒(お答えいただいた方には、「スペシャルサンクス」をさせていただきます)。

中途半端だからか?自覚はしている。曝け出すのでもなく、OLになりきるのでもなく、思わせ振りなことを書いて煙に巻こうとしているのがバレバレ。だからといって、感じたまま書くというのは、あまりにも品がなくていけない。暴露するために書いているわけではない。そんなこと書いて何になる?過去と記憶にフィルターをかけている。インスタグラマーな人々は、日記も書くべきなのだ。人生をバラ色に脚色する。そう書いたのならば、そうだったことにすれば良い。
それに、わざわざ公開しているのだから、この日記は、この日記を読む誰かのものでもある。映画の半分が、観客のものであるように。世界平和を願う私は、とても小さな力をフル活用して、世界平和に貢献しなければならない。世界の多様さと複雑さを称揚しているのは、それが人々の間に愛を、一人一人の心に勇気を生み出すことに寄与すると、そう本気で信じていなければ、一年半も書き続けられなかっただろう。

現実界と象徴界と想像界のタンゴ。単語としては、ボードゲームというもの。東久留米にボードゲームカフェがあるらしいという噂を友人から聞きつけた私は、人生で初めて、東久留米駅に降り立った。実際にあったのか、なかったのか。それは今でも分からない(著者注:行ったらあったんだけど、どうやら劇団がやっているカフェらしくて、稽古があるために土曜日はやっていない、みたいな感じだった。なのに、前の道路には「ボードゲームカフェ」という幟が出ていたりして、狐につままれたような気分で帰った)。それで、やることがなくなったこともあって、日記には書かないことを延々と喋っていた。詳しいM-1評を含めて、現代のお笑い芸人についてどう思っているのか、とか。こういう話が聞けるのは、僕と友だちになった人の特権だから、聞きたきたければ僕と友だちになるしかないないね(冗談だよ)。あと、いつも通りカラオケでアナログゲームをやって楽しかったのだが、週末のカラオケボックスは混んでいて、2時間半で部屋を追い出されてしまったので、もう少しやりたいなあという思いもあり、不肖私、会を立ち上げることにいたしました。詳細は次回以降……と煽ったところで、人、集まらないだろうなあ。とにかく人望がないからなあ。誰か、人を集めてくれる人はいないだろうか。そんな人を募っています。