手柄の、その手前で

ブログ「いらけれ」

「日記って、なんですか」というストレートな疑問に、僕が答えられるわけもなくて、ひとまずこうして書き始める。それにしても、野球の実況でよく聞く「ストレートのフォアボール」という言葉が、直球での四球のことではなくて、一球もストライクが投げられなかった四球のことなのは、本当に分かりづらいよなあ。しかし、眠りに落ちる手前らしき描写と、起きたという記述の間にある文章が、夢を書いたものだというのは、どの程度伝わっているものなのだろうか。不安?不安……というか、そこまで考えて読まないだろうし、それは僕もそうだし、だから野暮だけど、「これは夢です」と、ストレートに書いた方が良かったのかもしれない。

作り物を書くことに尻込みしてしまうのは、何も知らない自分に対する否定で、僕の書く女の人にリアリティなんてあるわけがないと思ってしまうからだが、「じゃあ村上春樹の書く女にリアリティあるのかよ、そもそも男の方も結構ないぞ」という問題はあり、だから問題はリアリティではないのかもしれないし、例えば、僕の人生のこれまでを包み隠さず書いたとしたら、かなりリアリティがないだろうし、人々のリアリティがそれぞれに裂けているのならば、面白いホラ話のためにはリアリティではない、もっと別の何かが必要なのでは?

そういえば、アーリング・カッゲの『静寂とは』を読み終えた。繰り返し、同じことが書かれているのは、悪いことではないと思った。大切なことは、繰り返し書かなければならない。なぜなら、繰り返し同じことが書かれた一冊の本を通読しても、日記を書きながらユーチューブを見たり、ツイッターを開いたりしてしまうからだ。するではなく、しないという時間を持つのは難しい、退屈よりも電気ショックを選んでしまう僕らだ。
手に取ったのは、「ノイズキャンセル」にある理由で、孤独について考えるためだ。そうして考えてみれば、やっぱり僕の中で孤独は、甘美なものであり続けているようだった。それは、「人間という存在の”無理”」に書いたこととつながっている。つまり、人間そのものに対する冷たい見方があり、不信感があり、砂上の楼閣だと考えているから、本来的に「どーでもいい」存在であるはずの人間が、孤独に晒されることによって、少しだけ人間から離れて、考える葦に近づくということ。あるいは、孤独の効能によって、世界/セカイについて"考えさせられる葦"になるということ。考えていないということさえ考えていない、ということに思い至る契機としての孤独。そして、身も凍るような退屈をくれる孤独を、僕は愛さざるを得ないのだ。

今日の抜き書き。前回の続き。

~善し悪しはその変化したものに依存しています。具体的な形を取って、物語を独創的なもの、あるいはつまらないもの、深遠なもの、あるいは皮相的なもの、複雑なもの、あるいは単純なものに仕上げるのが形式です。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.29

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤