渋滞
「新しいメガネにしたんだよ」と言って彼は、耳と鼻で支えられていたそれを、うやうやしく私の前に差し出した。「え」フレームの色が、それまで使っていたものと変わない黒だったので、私は気付かなかったようだ。いわれてみれば、確かに全体的に線が細くなっているし、レンズも小さくなっているような気がする。それと、顔に張り付いているときには分からなかったけれど、耳からレンズまでのフレームの内側が、鮮やかな紫色になっている。先月からライターの仕事を始めた彼は、さっそくメガネを買い変えた。そして、見えないところに派手な色を選んだ。「うん、なかなか、いいんじゃない?」思ってもいない言葉を口にしたことを、私は即座に後悔する。テーブルの上のコーヒーは、コップに大粒の汗をかいていて、氷が溶けて薄くなっていた。なにやってんだよ。
—今では、多くの人がスマートフォンを使うようになって、それまで"携帯電話"と呼ばれていたものは、"ガラケー"と言う名前に変わりつつある。そのガラケーをなつかしく思い出す人も、ガラケー本体の色が「シャインチェリーピンク」(これは僕が、適当に作った名前だが)などといったように、よく分からない名前になっていたことは忘れてしまっているかもしれない。物の色のバリエーションが増え、さまざまに進化していくのは、色が使う人をよく表すからだろう。黒いものが好きで、黒いものばかり身に付けている人はそのような人だ。逆に、白いものを好んで、身の回りの物を白いもので揃えている人は、まったく違った性格をしているに違いない。前段の文章は、『渋滞』のワンシーンだが、小説の主人公である「私」は、「彼」のメガネについて、それが新しくなったということには、教えられるまで気付かなかったようだが、別のものだと知って、以前のメガネとの違いを見分けているあたり、普段から観察をかかさない非常に注意深い人物であるようだし、そこまでメガネをかけた顔に注目していたということは、「彼」に対して、少なからぬ好意を抱いていたということだろう。小さな違いに気づく観察眼のある「私」は、「彼」が就職したという、それだけで浮かれていることを、メガネの色だけで見抜いた。そして、浮かれた気分のままに、それを見せびらかした「彼」に、がっかりしたに違いない。最後に発された『なにやってんだよ』という言葉は、軽佻浮薄な「彼」に向けられた言葉であると同時に、「彼」が馬鹿であることを見抜けなかった「私」にも、同時に向けられているのかもしれない。そしてもちろん、『渋滞』などという小説はない。
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