わざわい
流通量自体の増大という問題は、間違いなくあると思う、言葉の。だから、明らかに不誠実なことを言っている人や、嘘をついている人、問題発言を繰り返す人が、多くの社会問題と言葉に埋もれて、薄まってしまっているのではないかと思う。大きな問題を、「大きな問題だ」と騒ぐことで、問題が矮小化されてしまうという構造があるわけで、やっぱり別の戦い方をしなければならない。
思い出すことと、繰り返すこと。動物のなかで人間は、動物らしからぬところがあるとすれば、思い出す必要のないことを思い出し、繰り返す必要のないことを繰り返すという、神経症的な性質ではないだろうか。
無理してでも読まないと、あ、書き忘れていた借りた本。『エンタテインメントの科学』って奴で、未来の僕のためになるかなあと思って。ほら、僕の目指すはエンターテイナーじゃない?サイケデリックな表紙のわりに、中身はまじめな感じなんだよなあ。というか、読み終えられるかなあ。また延長してしまいそうだ。
東京ポッド許可局で「東村山問題」が話題になっていたね(投稿者の局員さんのことは、以前からネタが読まれるたびに「東村山だ」と気にしてた)。僕としては、誰がどこに住んでようと気にならないし、東村山であることも恥ずかしいと思ったことはないかな。それこそ昔は、市外局番が03じゃないことが恥ずかしかったとか聞くけど、ぜんぜん、いや僕が特別に能天気なのかもしれないけど、何も思わないし、何かを思ったこともない。
また書けるようになって嬉しい。ここからもう一度、私が始められる。創作行為だけが、この世界の輪郭を浮かび上がらせ、解像度を上げる。この終わらない映画の、たった一つの動きも、逃さないように。
ラジオ番組が十周年とか、二十周年と聞くと、とてもすごいことのように感じるのは、番組っていうのが、入れ代わりが激しいからということからも、そう感じるのだろうが、でも、おじさん40年同じ会社に勤め上げました、みたいな、そう考えると、そっちの方がよっぽどすごいことに思える……てか、それが当たり前みたいになってるけど、そういう社会のシステムができあがって100年たってないわけで、ラジオが普及するようになってからも、まだ100年たっていないし、でも、なんでか分からないけど、ずっと、このままこうして、同じルールや仕組みのなかで暮らしてくんだっていう"感じ"が、はっきりとあって、そのなかで最適化しようとか、人生設計をしようとか考えるけれど、実は、はっきりと分かる形で変わってなくても、システムは変わってるし、変わってく。でも、それでも、このシステムが続くという"感じ"の方が、人々にとってはリアルなので、人々は変わらないと思って生きる。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません