本質的にヤバいことやってんだ、俺たち

ブログ「いらけれ」

「女々しい」や「女の腐ったような」といった言葉を見聞きすると、差別がなくなったとは言わないが、今がどれほど良くなってきているのか分かる。そして、昔は本当にひどかったであろうことが実感できて「ああ、とても大変だったんだろうなあ」って思う。リアリティが持てないことでも、想像することはできる。

偏見は、差別は、ヘイトスピーチは、悪意のこもった顔ではなくて笑顔で来るぞ、気をつけろ。しかし、それは希望でもある。彼らは間違っていることを、心底分かっていながらも、それを内心で強く否認しているからこそ笑顔なのだ。だから、彼らに必要なのは知識ではない、ありふれた言葉を使うのならば、救済なのだ。

マウンティングとかトーンポリシングとか、私たちの関係の中に、私たちが関係を考えるときに、関係を外に持ち出して点検できる言葉がすごい増えている。それらの言葉のおかげで、マウンティングされていることや、トーンポリシングされていることを気付くことができるようになって、それが誰かの気持ちを楽にしているという側面は、否定できないと思う。でも、やり取りの中に、外側の尺度を持ち込むことの危険性、それは人間同士のつながりを、根本から破壊しかねないのだということには、注意していなければならない。

体育館に集められて、整列させられて、体育座りをさせられていた時、話を聞かないで彼女のことを見ていたら、それはバレていたらしく、放課後の靴箱の前で、「私のこと好きでしょ」って言われて図星。

いろいろな事件や出来事のおかげで、プロレスに風が吹いているようで喜ばしい。アレイスター・ブラックとジョニー・ガルガノの試合も素晴らしかったし。ただただ見るだけで、元気が出てしまうのがプロレスのすごさ。
内藤哲也の「プロフェッショナル」も、普通に感動してしまった。それは、レスリングの影を描いたようなものではなかった。内藤の個人史として、うまくいっていなかった時期が描かれていたり、あるいは当たり前のように、身体を極度に酷使しているため、ボロボロであることが描写されていたりはしていたものの。海の向こうでは、ナイア・ジャックスがベッキー・リンチをマジで殴って鼻を折っているというのに。
作っている人が、プロレス好きそうな感じで好印象だった。唐突に挿入されていたオカダのドロップキックからして、実はオカダファンなのかな。
「受けの美学」という便利な言葉は、まだ有効なのだろうか。ジムとホテルと車と試合が、映像のほとんどだったが、バックステージは映さないという判断だったのだろう。レスラー自身から、大きすぎる会場ではやりにくいという発言が聞けたことは、やはりそうかというか、我が意を得たりというか。
あの少年のようだった僕は、プロレスラーにはなれなかったけれど、来世では必ず、プロレスラーになろうと思う。それが、今回のドキュメンタリーを見た感想だ。

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Posted by 後藤