距離感
日々の研究の結果、ポケモンGOで駅前や公園に集まる人たち(「無言の大人たちが公園の一角を占拠しているのは、子供の教育上よくない!」というのは冗談です)の、その距離感と銘々の向きが、いつも遠くから見ている、駅前などの喫煙所に集う人たちと、まったく同じであることが分かった。
ゲームでも、たばこでも同じ。同じ目的を持って集まっているわけだが、それぞれが単独で物事を行えるので、お互いを意識しつつも、お互いが関わるわけではないが、そこにいなければならないため、一つの群を形成する人々だ。
あるポイントから離れられないが、他者がいるため、近すぎないように、向き合わないように図っている彼らの、その立ち方の研究をしたら面白いんじゃないか。もうすでに、どこかで調べられているのかもしれないけれど。
WWEが、サウジアラビアで開催する予定だった大会「クラウン・ジュエル」が今、開催の危機だという。「プロレスを見れば、世界が分かる」というのが僕の持論なわけだけど、マジでサウジアラビアが、それとアメリカの関係が、こんな風になってしまうなんてなあ。それもこの時期に。別の場所でっていう説もあるみたいだけど、どうなるんでしょうか。要注目。
あるとき誰かが思ってしまった。それが風邪のように、ゆっくりとその人から伝わっていって、周りの人々を変え、果ては日本中の意識を変えてしまった。
少し前に、この保育園の前を通ったときには、大声の子どもたちと同じか、それ以上の大きさで叱る大人の声が聞こえたものだ。しかし今では、それなりに年を取った人々は、声を荒げることも、もっと言ってしまえば、ちょっぴり大きな声を出すこともない。つまり、声が大きいということが、子供っぽいというように、価値観が変わってしまったのだ。
人々がささやくようになって、怒るとしても、パントマイムのように怒るようになって、アイコンタクトのために見つめ合うようになった。誰もが近づいて、顔を寄せ合っていたけれど、だからといって、世の中がよくなるということはなかった。小声で、顔を寄せ合って、誰かの悪口を言い、悪巧みをしただけだったから。
日めくりの孤独について。いつだって、それなりに面白いつもりなのに。それなりにだぜ、それなりにだけど。でも、この世界には、それなりにも面白くないものも多いし、そもそも、書かなければ何もないのだ。だって、僕が何もしなければ、本当に何もないのですよ?いいんですか?だからさ。
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