不自然学

東京03第20回単独公演「不自然体」初日へ、友人の誘いで。ちょっとした感想を書きたい(ネタバレ?は無し)。
90年代終わりから00年代頭の「お笑い」シーンは、そのメインの客層で、例に漏れずハマっていた姉の影響で、僕の中に確固とした位置を占めていて、そこで受けた英才教育が、後のラジオ好きからの、こっち(サブカル?)へ曲がっていく原因だった。「WANTED!」火曜日はバナナマンの担当で、その流れで聞いていた水曜日は菊地成孔と大谷能生の担当。つまり、そういうことだ。だから、「オークラ」「ニイルセン」といった名前を、その公演の最中に見つければ、それなりに感慨を覚えたりするのだった、新国立劇場(この大きな会場でやっているのもすごい)の席に座りながら。
中年男性3人という限られた狭い条件の中で、コントごとに様々なシチュエーション(彼らの言葉で言うなら「設定」)を発明し、幅広い客層(小さな女の子も、おじいさんも会場で見かけた)に向けて、ポリティカルコレクトネス的に難しいテーマを、その微細な表現力で易々と乗りこなしていく様には本当に驚かされる。笑いを外さないこの素晴らしいコントたちが、シティボーイズなどから流れる関東のコント史、あるいは現代口語演劇史といったものに、どのように接続され、どのような位置を占めるのか、しっかりと語れるほどそちらに詳しくないのが口惜しいほどに、すごいことをやっていると思った。
彼らのネタにするものに、現実から遊離したものはなく、唐突な気まずい状況や、突飛な発言をする人というのは、私たちの周りにいるばかりではなく、まさしく私たちの姿でもある。つまり、そこに私たちは、私たちを見るわけだが、しかし、私たちの世界には、あのコントのようなひねった展開も、大声のツッコミもない。つまり、おかしな現実は回収されないのであって、そうやって回収されない人生の断片(=もやもや)は、私たちに残存し、血管を巡っている。東京03は、そういった誰もが持つ人生のもやもやを、お笑いの文脈の中に取り込み、完璧に消化/笑いに昇華していく。彼らを見て笑うとき、掬われているのは私たちの過去であり、記憶だ。つまり、東京03=デトックスなのではないか、と思った。

こうやって真面目に、技巧を凝らして書くことが恥ずかしい。やっぱし、僕にはライターなんて無理なんじゃねって、ライターとして働き始める前から怖気づいてしまう……。もうちょっとしたら入社するってのに。
こういう自意識みたいなところから、一歩先へ行くために、このブログはあって、つまり訓練でもあって、そんなものを読む人の身にはなれないというか、基本的には読まなければいいものである。

教えたことを覚えていないということがお互いにあって、僕たちは会話に内在しているつもりで、モノローグに引っ張られているのかもしれないと思う。「話を聞きましょう」というありがちなスローガンを、実際的に意味のある言葉にするのは非常に難しい。語りたいことはあっても、語られたいことは、こちらの想像もつかないエピソードだったりするわけで。「聞きたいことを聞かせろ」という尊大な態度を取らず、どんなことでも聞く、聞くことの受動性へ耳を開いていくこと。これが重要だとは分かっていても、そこへ向かう方法は分からない。


鈴木英人っぽいイラストがパンフの表紙絵

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