なにかしらの朝
夏にきりっとした空気を味わえるのは、この時間帯だけで、実際にはきりっとしていないのかもしれないけれど、冬と比較さえしなければ、マンションとアパートの間を抜けてきた風は十分に心地よく、それは、私の皮膚に感覚があることを意味していた。家の前のゴミ集積場は金網で作られていて、鍵のかかったドアに貼られている紙には、「見てるぞ」という言葉と共に、人間の目の不気味なイラストが描かかれている。誰のものでもないはずの、その目が見ているのは私たちで、そしてその目は、同時に私たちの心のなかにあった。私たちは、私たちを見ていた。
水気のない青いゴミ袋の陰から、一匹のごきぶりが這い出してきて、そのまま道路を横切ろうとしていた。街で出会うごきぶりは、家のなかに現れるごきぶりとは、まるっきり別の虫なのかもしれない、と思う。部屋のごきぶりは大きいし速いのだけれど、道端ではそこまで大きく見えないし、スピードも速いとは感じない。部屋と街の間には壁があるだけなのに、そこにおいて認識される空間のサイズが、大幅に変化しているのだろう……か。それとも、どこへでも行けるのだから、わざわざこちらに向かってはこないだろうという予測で、安心しているだけか。
そうして私は、しっかりと閉めたカーテンの隙間から漏れる朝の光のなかで死ぬ。睡眠は夢に邪魔されることなく続き、私は見慣れたゲームセンターで、大昔のシューティングゲームに興じている。唐突にカメラが引いていき、そのゲームセンターがスーパーマーケットのなかにあるゲームコーナーだということが分かる。身体に服がまとわりつく不快さで、タイマーで切れたエアコンのスイッチを入れる。スマートフォンのアラームに先んじて目覚めたら、早朝が朝になっている。管のなかで温められていた水道水で顔を洗った私は、夏の一日は長いなあ、と思う。これからまた、今日を生きなければならないのか。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません