騒がしい頭のなかで数える
あの日と口に出せば大抵それは、俺とお前が一緒にいたあの日としてのあの日が立ち上がり、それまで脳のなかで座っていたことを確かめ合い、それから、そのあの日を肴にハイボールなどを飲むものが大人であると物の本には書かれているのであって、それは本物(モノホン)なのかもしれないと思った二人は二軒目に向かうだろう。
そんで「生きのばし」だ。「死にたくなる朝といる」というのはよく分かる話で、今トリンテリックスがなくなったので、明日はまだ大丈夫だとしても、土曜日の朝が怖い。生きのばして、トリンテリックスというバンドを組んでやろう。当方ボーカルでメン募だ。
「あの日あの空拝めるのは あの日のボクらだけ」というのは不思議だ。普通であれば、"拝めた"としそうなものだ。"拝める"というのは、まだ拝んでいないということだから未来だ。でも、それを"あの日あの空"と言うことで、それが本当に、この先にあるみたいだ。言葉が伸びていって、その"あの日あの空"に触っているみたいだ。それなりに生きた人ならば一日ぐらいはあるだろう、幸福な"あの日"と"あの空"が、未来に用意されているみたいだ。だから私たちは、精々生きのびなければならない。
人生に心療内科が戻り私は、これまでの怠惰な生活は、自堕落な私は、鬱状態だったのではないかと、そう疑うようになった。西洋医学バンザイで薬を飲んだら、この性格も治るのだろうか。だったら薬なんて、いくらでも飲んでしまえという気になっている。実際に人生にやる気が出て、ケーブルテレビでやっていた『ジョーズ』を見たら、思っていたのと全然違った。パニックパニックわー、かと思っていたのだが、前半一時間は"危機"と"専門家"と"経済"と"政治"の話だった。今観るべき映画感があった。あと、名作とされている作品はやっぱり面白いなあと思った。
隣にいる人が倒れるかもしれないというリアリティで私が生きているのは、私が倒れるかもしれないというリアリティで生きているからだが、Zoomの向こうで倒れても、できるのはせいぜい救急車を呼ぼうとするぐらいで、そこで人は、相手の家の住所を知らないということに気がつく。
とにかく、なにを言ったところで殴られないんだし、穴の開いた膝にアップリケがあってもバレないんだし、臭くても嫌われないんだし、ということは、目に映る顔に気をつかわなくてもよくなっているのだと、そういう事実に私たちは気がつかない。
他人の雰囲気を窺うアンテナを張らなくてもいいというのは、他人に対する冷たさを持っていてもいいということだから、それが気楽なのは当たり前で、でも、向こう側で倒れたらなにもできないじゃないか(こちら側で倒れてもなにもしてもらえないじゃないか)と思う。言いたかったことは以上。
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