醒めた目
春休みがもう少し続くから、静かな朝が終わってもまだ眠っていた僕に意識が宿り、消し忘れたテレビが見えた。ニュースは途方も無い悲劇を伝え、風をとるために開けていた窓からは、誰かの拡声器越しの声が、こもっていて聞き取れない。
ただ履いているだけで汚れていくスニーカー。そういうことも分かってくる、生きていれば、いろいろ。十年後には、今の友だちの連絡先さえ知らないなんて、今はまだ知らないけれど。
ファーストフードの固い椅子の上で、行き交う人々を見ている彼の目に映った僕は、そのまま真っすぐ歩けば良いと思ったからそうした。僕たちはいつでも辛かったけれど、それは辛いと思ったり、言えたりする余裕の上にあった。辛いという言葉を知る前に、殺されていった子どもたちではなかった。だから弱音を吐く僕に、弱音を吐かれる僕が冷めた目をしていた。
ささやかな幸福を知り、暮らす二人の物語になるだろう。生まれる前からの仕組みで、学校があって、金があって、政治があって、一人の人間にできることは少ないから、それは二人になっても同じだし、死んだ後も世界はあるだろうし、それでも、未来が減って過去が増えていく今に、できることを考える歌田と荒野の二人組の話を書くだろう。表札の名字は、宇多田ヒカルのなかに歌があることを教え、単純に荒野という名前は格好いいなと思わせた。
規則正しく進んでいくように見せかけているのは音楽で、一定のリズムが、よれた世界のシワを伸ばしてくれる。その時聞いていた曲の、歌詞の本当が分かるのは十年後だった。人生の答え合わせは唐突に訪れる。分からなかった小説が分かる。分からなかった映画が分かる。分からなかった彼女の真意が、唐突に分かってしまって困る。今さら分かったところで、為す術もない。
結局、何だって良いというわけではないのだ。何だって良いのならば、薬物漬けで構わない。苦しみも味わいたい。だからいつだって信念を練り上げている、一歩一歩進むたびに。自分のなかに蓄えておいた言葉と、頭のなかで考え抜いた正しさ。窮地に立たされれば、それしか出てこないのだから。
何だって良いのならば、いくらでも酷いことを言えたし、いくらでも酷いことをできたのに、労って手を差し伸べる自分になりたいと思うためには、人格を陶冶するまでには、長い時間をかけるしかなかったのだから。
私の午睡のなかでは、入ったことのない路地の先に見たことのない団地があり、団地の公園にとても綺麗な藤の花が咲いていた。夢のなかの僕が、それ見ていた。
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