言った言わない
どんどん暖かくなっていくのを肌で感じる。街を歩いていると、白い花が咲いた木に出会う。足を止めはしないものの、目を奪われる春だ。
言ったことと言われたことの他に、思ったけど言わなかったことと思われたけど言われなかったことがあり、私は、陰口が気にならないタイプの人間というか、私の視界の外に世界はないと思っているクレイジーガイなので、何を思われていても言われなければ平気なのだけれど、思ったけど言わなかったことは、ずっと胸でぐずぐずしている。双方が思っただけのことは、双方に伝わらないという仕組みが平和を作っている。それは理解しているつもりだ、しかし、内心の自由によって込み上げてきた感情が、私を苦しめる。これを言ったら傷付けると分かって、それを言う勇気はない。
この世に放たれなかった言葉について、それが口に出されていた場合を想像することはできても、実際にどうなっていたかを知ることはできない。政治的な正しさにしても、セクハラやパワハラにしても、それこそ"誰も傷つけない笑い"にしても、それらが意識されるようになった結果としてブレーキがかかり、封じられた口があるはずだ。そう、つまりその声が出ていたら、どのような影響を与えたかを知ることができないからこそ、人々は息苦しいと感じてしまうのではないだろうか。言葉を飲み込まなければならない息苦しさのおかげで、誰かが傷付かずぐっすり眠れたり、あなたの心の平穏が保たれたりしているのかもしれない。しかし、その見えない恩恵を実感するのは、とても難しいことだ。効果を正しく見積れず、過小評価してしまう。
“誰も傷つけない笑い"については、枡野浩一氏のつぶやき(①、②)に共感した。確実に誰かを傷つけると分かっていて、笑いのために何かをするのは人として間違っているし、人を傷つけないでも笑いが取れるなら、それを選んだらいいじゃんって思う。加害者側に立たされたくないという話は、『なぜあの人はあやまちを認めないのか』における自己正当化の問題と綺麗につながる(あの本、かなり重要だったのではないか?)し、もっと言えってしまえば、杉田俊介氏の有害な男性性と被害者意識、傷つきやすさにまつわるツイート(①、②)ともリンクしているように思う。
ここまで考えて、まだそれでも、何かを言えるほどではないと思い、もっと脳内で練ろう、そして知見を広げていこうと決める。そこまで真剣にならず、適当な言葉にしてしまった方が楽なのに、そうしたくないと拒否する理由は美学しかない。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません