あなたのなかにある財宝

ブログ「いらけれ」

世界から祝福されているという感覚が、世界への信頼を生んでいて、どれだけ暗い夜道にいても、常夜灯のように明るくしていられるのかもしれない、僕は。無駄に明るくて申し訳ないけれど、僕にとってはありがたいことで、この陽気がなければ死んでいた気がする。冷たい、冷たい道端で。自分の喜びよりも、隣にいる誰かの喜びの方が喜べるのは、心のどこかがすでに満たされているからなのだと思う。誰もが誰かの幸せを祈る世界は、運よく祝福された私たちが誰かを祝福して作る。

人付き合いのなかで、失敗したーって分かることは少ない(この前の日記にも書いたけど、知らない内に心の扉を閉められていることの方が多い)。知らなければ辛くはならないから、それで助かっている面もあって、でもこの前やっちゃって、あーやっちゃったってことが明確に伝わってきて、後悔先に立たずという言葉を噛みしめた。でも、そりゃ失敗するし、これからも失敗するに決まっている、愚鈍だから。自分を許しているのではなくて、愚鈍ゆえに犯してしまう失敗を、まずは認めて、自己正当化しないことしかできないのだから、そうする。『なぜあの人はあやまちを認めないのか』を読んだ効果が出ている気がする。ツイッターで素人の意見を読んでいる暇があったら、この本を読めばいいのにって思う。放言に、僕は冷たい目をしている。

横になって、壁に面と向かって、それから目を閉じた。それまで起きていた彼は、厚手の毛布のように重たい静けさを、往来するトラックが少しずつ削っていくのを感じた秋の早朝に<内側から燃える燃える燃える。この美しい朝に、俺は街に火を放つ。具体的に言えば中学校を焼く>と考えていた。彼は切迫し続けていたから、校舎の階段の緑色のタイルが、真っ赤に変色していくイメージを思い浮かべたのは初めてではなかったし、最後でもなかった。彼は後に、二年以上にわたって登校を拒否していた学校を、登校しないままに卒業した。つまり、火をつける必要はなかったのだ、その日も、朝焼けが街を焼いていたのだから。

文章の、あるいは描写の自由を、僕は今から行使して、散歩をしていた僕の横を通り過ぎた自転車に乗った男の背中には「Uber Eats」と書かれた箱が、時代を帯びた店構えの寿司屋の戸には貼り紙があり、昭和30年に開いた店だが令和元年12月に閉店したと書いてあった。
この二つは確かに同じ日に見た光景だ、けれど、見た場所や時間は遠く離れていた。別の二つを一つにした。一枚の写真に、別の場所と時間を収めた。文章にはそれができた。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤