ブログ「いらけれ」

ボートレース多摩川に行こうかなー、ボートレースデビューしちゃおうかなーと、8時にセットした目覚ましで起きて、やっぱり今般の状況を鑑みてやめておこうと思い直して、11時まで二度寝するという最悪のスタートを切った一日。良かったことといえば、glass beach『the first glass beach album』が、本を読む際のBGMとして最適だと分かったことぐらいだろうか。公民館一階での読書が捗った。

それで、市役所とか公民館を回って、ポスターを貼ってもらった哲学カフェが中止になるというか、中止にする。辛いけど仕方がないとはいえ、やっぱり辛いものがある。さまざまな理由によって、とても楽しみにしていたから。

とはいえ。非常にガッカリしていたとはいえ、関連書籍を読んだりして、自分もそれなりに準備していたとはいえ、ポスター作りなど、もっと直接的な用意をしてくれていた同じスタッフの方に何か一言、無駄になってしまったことへの残念さと申し訳なさを伝えるべきだったのでは、と帰り道で思った。そういう配慮がいつもできない、人として出来が悪いから、反省すべきことが日々に連なっている。

それで、そういうすべては置いておくことにして、家に帰ってMリーグを見る。オーラス四暗刻単騎で総まくりとか、すごい試合をやっていた。Mリーグを見るといつも、麻雀は面白いなあ、と思う。行われているのは、4人のプレイヤーによる小さな選択の積み重ねなのに、そうとは思えないほど大きなドラマが卓上に出現する、いや、見ている人々がドラマを生成する。読み取るために必要な基礎的な知識と、読み取ろうという意志が掛け合わさったところにだけ、ドラマは立ち現れる。

一日の終わりは、何も12時を過ぎて、日付が変わることだけに限らず、私が電気を消して、目を閉じるまで続いていた一日は、そのまま終わかと思いきや、深夜に目を覚ました私はどの一日にいるのかも分からず、ただ、息苦しさを感じていた。私はかつて、この死なない病で、救急相談センターに電話をかけながら玄関を飛び出して、オートロックから締め出されたことさえある、真冬の深夜に。症状が落ち着いて、その事実に気が付いて愕然とした。愕然としていたら、深夜にもかかわらず丁度帰ってきた人がいて、命が助かった。「すいません、鍵持たずに出ちゃって」と声をかけて、その人と一緒に建物に入ったけれど、どうして鍵を持たずに寝間着のような格好で外出したのか、怪しいと感じたに違いない。とにかく、効果が疑わしいヒーリングミュージックを聞いて目を閉じたら、いつの間にか眠った。

起きて、今日は貼ってしまったポスターに「中止」と書きに行かなければならないから、部屋を探したらマッキーがあって、なぜあるのかが分からない。買った覚えも使った覚えもない。蓋を外して、そこにあったチラシの裏に先を押し付けたらインクが出た。ちゃんと使えるとなおさら、なぜあるのかが分からないが、今日から私は、マッキーを所有する人になった。

ブログ「いらけれ」

あなたにも一つぐらいはあるだろうか。私には三つぐらいあるこの、言葉にはできない出来事。幼稚園児の私は五階建ての四階にいて、まだ安全への意識が曖昧だったフェンスをすり抜けて、前には何もなくて、そこで記憶は止まっているから、そこで終わってしまった人の、終わるまでのスローモーションが延びて、今なのではないかと思う時がある。それなのに苦しみ、あるいは怒り、一等特別な悲しみ。思い出したくもないのに、折に触れて思い出してしまう記憶は、むしろそれが、本当にあったということを確かに証明している。失踪、蒸発してもおかしくなったのに、それでも生きているのが不思議で、そして後悔している。答え合わせの時間は、ずっと後だと聞いた。あれもこれも、いつか書けるのだろうか。そういうものなのだろうか。仕事をお疲れ様といった後に、子育てお疲れ様、介護お疲れ様と言っていた。お疲れ様という言葉でならば、つなげられるものがあった。歌うように書くまでもなく、踊るように書くまでもなく、書くことは歌うことだったし、その逆もまた成り立っていた。誰にも何も特権なんてなかった。

地見師ばりに下を向いて歩いていて、人々に踏みつけられる場所にもそれぞれに独特のひび割れや染みがあり、車道と歩道の小さな段差を埋めるためのプラスチックの段差プレートの周りには、いつかの雨の小さな水溜まりができていて、そこに白とピンクを混ぜたような花びらが無数だ。前にあるのは歯医者の建物だし、商店街だから目に付くところに木はなく、前に進むのを止めて散乱する花びらを辿っていった先、細い路地の向こうに民家があって、その塀から頭を出している木が一本、3割程度しか花は付いていないから、その大半が散ってしまったと考えるべきなのか。侮ってしまいがちなただ一本の木からこれだけの花びらが、そういう単純な驚きがあった。

前を行く人の後を、離されないようにずっと、懸命に付いていく。そういうイメージで生きてきた。要領が悪く不器用な私のせいで、ひどい不利益を被ってきた。最近、「気が利く人」みたいに言われることがあって、いやいやマジか、と思う。その先に道がないことを知っている、自分はそういう人間ではないから。気をつかっているのではなく、ビクビクしているだけ、嫌われないように用心していても、いつか失敗するのだから、低評価でいたい。『「がっかり」は期待しているときにだけ出てくる希望まみれの言葉』は、枡野浩一の短歌だ。がっかりされたくないから、期待されたくない。しかし、今更期待されないように動いても嫌われるだけだ、もう袋小路にいるのかもしれない。


THA BLUE HERB “今年無事” @ 東京 contact – 2019.12.29

ブログ「いらけれ」

GABAのチョコ、安くなんねえかなあと、毎日のようにアマゾンをチェックしている(気になるGABAの効果だが、未だ実感できていない。私にとってそれは、「鰍沢」における毒消しの護符ぐらいの位置にあると書いたところで伝わらないだろう、解説に解説が必要だ)。明日の食い物に困るような暮らしじゃないから、10袋1400円ぐらい出してもいいんだけど、1100円で買ったというコメントを見てしまったから、どうしても躊躇してしまう。コメントを見る前は、1400円でも安いと思っていたのに、もう知らなかった頃の私に戻ることはできない。もう戻れないのだ、リビングの兄がスマートフォンで、このサイトをチェックしているのを見てしまう前の私には。あれ、わざとだったのだろうか……だったのだろうな。

ラッキーしたい。万舟券を当てたい(「まんしゅうけん」。競馬における「万馬券」のボートレース版。100円で買った券が1万円になる当たりのこと)。なんか良いこと起きないかなと待って、何も起きないまま死ぬ。それもどうかなと思ったから、『男らしさの終焉』を読み始めた。まあ、そうっすよねえという感じだ。自分の意見や考え方には、社会的に構築された部分があるということを知らない人は、ある面では幸福で、そして、救いようがないほど不幸だ。知らない人は、知らないという理由によって知ることに辿り着けないから。ああ。
教室を、世界のすべてと言ってみたり、街を、人種のるつぼと表現してみたり。こうして並べると、分かりやすいでしょ?驚くほど簡単でしょ?誰にでもできることさ、ただ、しない人が多いだけさ。
木原善彦『アイロニーはなぜ伝わるのか』も立ち読みして、千葉雅也『勉強の哲学』が取り上げられたりしていて、面白そうだったから買えばよかったのに、ポイントが付かないからといってやめてしまった。どこかがおかしい暮らし。それなのにこの前なんか、金額の大きい買い物をしなければならなくて、レジの前でauのプリペイドカードにチャージしていないことに気付いて、焦って、別のクレジットカードではなくて、現金で支払ってしまった。皆もこういう経験あるよねって言って、誰かを仲間にしたい。とにかくアドリブが利かない。

泉まくら 『いのち feat. ラブリーサマーちゃん』 (Official Music Video)

風に跳ねる枯れ葉 裏返る思い出
戻れない枝先をもう決して見ない
突っ伏した地面に根があると知って
よりこの心の滾る冬

好きだって言ったらちょっと良く見られそうとか、そういう下心は抜きにして、やっぱり女の人の方がこう、ぐっとくるのかなと思ったりして、誰かに分けられるなら、分けられるべき人に分けるべきかなって思って。

たった今気が付いたんですが、「なんでも箱」とだけ書かれていても、何が何やらですよね。馬鹿すぎると嘆いて、一通り嘆き終わったので、「メールフォーム」と前に付けました。何かあったら、よろしくお願いいたします。

ブログ「いらけれ」

何もやってない。駄目だ。

ポテトチップスを食べた。夕飯を食べて少し横になったら、もう眠っていたぐらい疲れていたから、あらかじめ買って帰ってきていた。スーパーマーケットにはたくさんの人がいた。ドクターペッパーとミルクレープも久しぶりに買った。ポテトチップスは、プライベートブランドの梅味と、鳥貴族が監修したという貴族焼スパイス味を買った。
ミルクレープは賞味期限が三日後だったから、一口分だけ切って食べた。ドクターペッパーはまだ飲んでいない。二袋のポテトチップスは、半分ずつ食べるつもりで、両方を開けて、全部開けた。死にたいと思うまでもなく、病気で死ぬだろう。それでよかった。

人生がどうでもよくなってしまう私に焦れる。

哲学カフェと呼ばれるものは一般的に、そして基本的に、専門的な知識がなくても参加できることになっている(ものが多いと思う)し、むしろ、難しい専門用語などはなるべく使わないことが推奨される。つまり、掲げられるテーマについて、皆が素人として発言し、それを素人として受け取り、応答していくという場が設定されるわけだ。
言うまでもなくそれは、無知や無理解による発言を許容するということでもある。実際に、そうした発言に出くわす場面もある(もちろん、私自身がそういった発言をしてしまう時もある)。自由に物を言える場所も、どこかには確保しておかなければならないと、一応理解はしているつもりだ、しかし……普段、人々の放言にげんなりしている私が、「それで良い」と言っていいものだろうか。
このポイントについて私は、この先もしつこく考えていかなければならないと思っている。専門知は間違いなく重要なのだから。知識は、差別や偏見を許さない防波堤でもあるのだから。それを分かった上で、対話を成り立たせる方法。

そういう私もいるし、そうではない私もいる。

遠く響くメタファーは、作者の意識の外で生まれた。物語構造とその中の記述が比喩関係にあると、作者は読み返して気が付いた。それぐらいの距離が必要なのではないかと、そう考えるようになった。
大体、私が思い付くことなんて高が知れている。煌びやかな才能や優れた頭脳を持たない組の私たちは、意識の内で小細工してはいけない。書かれつつあるものに深く浸かり、滞在し、身体全体で感じ取り、出力するのならば、それは私たちの単純な能力を超えた文章となるだろうし、一人の人間が全体重をかけることができれば、ある真実を宿すことができるだろう(付言すれば、作者が意図していない真実を読み取ることこそが、批評と呼ばれる営みの中心点なのではないだろうか)。