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ブログ「いらけれ」

あなたにも一つぐらいはあるだろうか。私には三つぐらいあるこの、言葉にはできない出来事。幼稚園児の私は五階建ての四階にいて、まだ安全への意識が曖昧だったフェンスをすり抜けて、前には何もなくて、そこで記憶は止まっているから、そこで終わってしまった人の、終わるまでのスローモーションが延びて、今なのではないかと思う時がある。それなのに苦しみ、あるいは怒り、一等特別な悲しみ。思い出したくもないのに、折に触れて思い出してしまう記憶は、むしろそれが、本当にあったということを確かに証明している。失踪、蒸発してもおかしくなったのに、それでも生きているのが不思議で、そして後悔している。答え合わせの時間は、ずっと後だと聞いた。あれもこれも、いつか書けるのだろうか。そういうものなのだろうか。仕事をお疲れ様といった後に、子育てお疲れ様、介護お疲れ様と言っていた。お疲れ様という言葉でならば、つなげられるものがあった。歌うように書くまでもなく、踊るように書くまでもなく、書くことは歌うことだったし、その逆もまた成り立っていた。誰にも何も特権なんてなかった。

地見師ばりに下を向いて歩いていて、人々に踏みつけられる場所にもそれぞれに独特のひび割れや染みがあり、車道と歩道の小さな段差を埋めるためのプラスチックの段差プレートの周りには、いつかの雨の小さな水溜まりができていて、そこに白とピンクを混ぜたような花びらが無数だ。前にあるのは歯医者の建物だし、商店街だから目に付くところに木はなく、前に進むのを止めて散乱する花びらを辿っていった先、細い路地の向こうに民家があって、その塀から頭を出している木が一本、3割程度しか花は付いていないから、その大半が散ってしまったと考えるべきなのか。侮ってしまいがちなただ一本の木からこれだけの花びらが、そういう単純な驚きがあった。

前を行く人の後を、離されないようにずっと、懸命に付いていく。そういうイメージで生きてきた。要領が悪く不器用な私のせいで、ひどい不利益を被ってきた。最近、「気が利く人」みたいに言われることがあって、いやいやマジか、と思う。その先に道がないことを知っている、自分はそういう人間ではないから。気をつかっているのではなく、ビクビクしているだけ、嫌われないように用心していても、いつか失敗するのだから、低評価でいたい。『「がっかり」は期待しているときにだけ出てくる希望まみれの言葉』は、枡野浩一の短歌だ。がっかりされたくないから、期待されたくない。しかし、今更期待されないように動いても嫌われるだけだ、もう袋小路にいるのかもしれない。


THA BLUE HERB “今年無事” @ 東京 contact – 2019.12.29

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤