ブログ「いらけれ」

ちくしょう感のある毎日で、それは希望が見えるような時ですらそうで、生きるのって大変だ。

ちょっとだけ前に進んだから、本来ならゆとりが生まれてもよさそうなものだけれど、焦りはなくなっても自分がどうか、ちゃんとやれるか(夏休みの宿題は、やらないで学校へ行くタイプ)、つまり履歴書を書いて送るまで行けるかということすら難しいのであって、毎週木曜日にハローワークに必ず行くと決めたりもしたけど、こなせる自信がない。

先行きも分からないうえ、そんなに簡単じゃないことも知っていて、生まれたことの謎が常に頭にある。

人生、しかしどうにかなる……? それは、この先をお楽しみに! (ぼくは一つも楽しくない!)

ブログ「いらけれ」

本当にそうかどうかは置いとくとして、自分を切り売りしていった方が良いのだろう。
結局、私小説もある種の吐露として読むものとして読んでしまう。
それを読みたいと思う心が卑しいと思う私も。

「良いかとかそんなのは大丈夫で、ブログは風景とか書くし。」と思った。
不満が、そりゃ溜まってる……社会のせいにしたいから、愚痴ることもある。
しかし、それはそれで、あっていいものとして私は、一昨日書くのを止めた。

で、こうやって書くことがもう一つの吐露になっていて、つまり逃れられないのだなと知る。

ブログ「いらけれ」

趣味のものを見えるところに置くようになった。初めは意識的にではなかった。少年ハリウッドのDVD。マッドマックスのパンフレット。文庫版の野火。大東京ポッド許可局で買った手ぬぐい。

インテリアではない。誰かに見せたいからではない。物には気配がある。消費できる情報を持つだけではない。

その異物感には圧があり、私は奮い起こされる。物は、そういうものとしてある。

ブログ「いらけれ」

ハローワークから歩いて歩いて、国立病院の脇を抜ける。それから、線路沿いに出てずっと進むと左手に大きなグラウンドがあり、金網で隔てられているその横をさらに行くと、中がうかがい知れないがグラウンドに付属しているだろうプールの、そのスタンドが現れる。見上げるくらい大きく、下が抉れていて、上が迫り出しているように感じる。それはだから、天井が向こうにいくほど低くなる造りで、自転車を置くのにちょうどよいようだ。人の気配がないのにずらっと停めてあり、万年駐輪場になっている。