ディストピアみたいな市街地

ブログ「いらけれ」

ツイッターを見ていると、いろんな出来事や事件が、有名人や文化人のコメント付きで流れてきて、本当に簡単に”知った気になる”よね。まったく元記事を読んでいなくても、知った気になっているものっていっぱいあるもの。でも、”本当に知る”こととの距離は、余計に離れてしまったと感じる。新聞記事を熟読し、他の記事も調べて比べ、自分でゆっくり考えるとか、そんな時間を持てる精神的、時間的な余裕と、そんな聡明さは、ほとんどの人にはないわけでね。すべてが早くなっていくことで大事なものがゆっくりと壊れていく感覚。ツイッターはもう潮時なのか、SNS全体がダメなのか、そもそも人間同士のコミュニケーションが終わっているという感じもしないでもないが。

「すべての論争は、立場のやり取りをしているだけである。」とまでは言えないとしても、”私”を透明にして、言説のみ批判しているように見せていても、結局裏側に金や名誉や縁故や私怨があったりするわけで、陰謀論者になれと言っているのではないが、すべてから距離を取って、半信半疑で考えるのが大事だよね。

めちゃくちゃ映画に詳しいそうな話しぶりの人が、ヴィスコンティだけ知らないみたいな、そういう瞬間って極稀にあって、そういう知ってそうなことを知らない、知識に穴が開いているっていうのが、僕好きなんです。だって、面白くないですか?なんだか、ぞわぞわしませんか?まず、知ってそうという予断を、勝手な先入観を自分が持っていたことが面白いし、それに、都合よくそれにだけ出会わなかったその人の人生が面白い。

涼しい日が続いている。駅ビルの中の本屋に、新興宗教の教祖が書いた本のコーナーができている。つまらなそうなベストセラーが並んでいる、ベストセラーがつまらないと本好きが言う、それならばその状況を変えるべきだし、なんでそうなっているかを考えるべきだ、とか、そんなことを思っていた。そういえば、ここに向かう道の、その途中の店が軒並みなくなっていた。囲われた更地になっていた。道路を拡張するんだそうだ。自生的に、生えるように建っていた店を、刈り取ってしまう暴力。しかし、自然のままに任せていると、繁栄はいつか衰退していくのも確かで、計画と偶然のあわいに、目指されるべき理想があるのだろう。

誰も見なくても書くつもりとはいえ、やっぱりアクセスやクリックがあると嬉しい。皆さまのやさしさのおかげで生きています(つまり、やさしくしてくださいということです)。大幅に生き方を変えたりはできないけれど、少しずつなにかチャレンジして、トライしてみたりして、それが誰かのためになればなんて思いながら書いたり、話したりしています。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤