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ブログ「いらけれ」

「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く~」を見て、久しぶりに真剣にものを見て、頭がぼーっとしていた。マルクス・ガブリエル、ほんと芯からドイツの人で、それが思想の根本なんだな~。あと、斎藤哲也さん映ってたな~。
内容的には、確かにとても真っ当なことを言っているのだろうとは思うのだが、なんだか宗教の教祖みたい……と思うときもあって、それは需要のされ方も含めてなんだけど、うーんと考えこんでしまった。
あと、この一連のシリーズ、中身は好きなんだけど、演出が過剰に思えてしまう。完全に好みの話なのだが。もっとサッパリとした映像が、自分は好きで、そっちの方が伝わるのではないかと思う節があって、でも、自分の文章はサッパリしてなかったりするのがどうもね。
不満はあれど、とはいえ興味深し。再放送されることもあるでしょうから、皆さまもぜひご覧ください。

この前セミの抜け殻を見たときには信じられなかったけど、今日に歩いていたら本当にセミが鳴いていて、その比較的短い命が、入れ代わり立ち代わり夏の声になるところを想像していたら、足元に綺麗な蝶が死んでいて、蟻が登っている。周りに茹でられた赤い海老が落ちていて、それについてはよく分からなかった。
僕の高校時代というのは、知的に障害を持つ子たちと一緒の生活で、だから、あの時代を書くなら、彼らのことも書くだろうと思う。いい思い出も、悪い思い出も、それは当たり前のように。今の小説に、知的障害者の登場人物が普通にいるというパターンが少ないのは、現代の日本において、彼らが排除、差別されている場面が多く、社会に包摂されていないからだろうし、それは本当によくないことだと、笑いながら一人喋っているおばさんとすれ違って思った。

「「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく」
野党の支持率が低いことには、もっとたくさんの理由があるだろう。心性にしたって、弱い方が批判先として安全とみられていることであるとか、勝ち馬に乗りたいであるとか、そういった傾向もあると思う(まあ、これもコミュ力重視的な傾向とつながってるのかもしれないけれど)。ただ、間違いなくコミュ力的なものに縛られている感じはあって、本当にうんざりしたりしているわけで、だから、こういう主張はやっぱ耳心地よく聞こえてしまうってところはある。
もちろん、コミュニケーションとはじゃれ合うことだけではなくて、むしろお互いに意見しあうこと(もちろんそれには批判も含まれる)こそがコミュニケーションなのだということは言っていかなければならないし、SNSにはかえって批判以下の愚痴や難癖が溢れているという現状から、その時代精神を喝破していかなければならないとも思っている。
しかし、自分が野党的な立場の政治家だとして、その精神の傾向を変えていくことを目指すのか、人々に最適化して人気を取るのか、変革と最適化の二兎を追うのか、戦略が難しいだろうなと思った。戦略なんて考えないのならば、もちろん人々の考え方を変えることを目的にすればいいのだけどね。

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Posted by 後藤