楽しめる私に

ブログ「いらけれ」

料理の楽しさを言葉にするのは難しいのだが、楽しいと感じている私がたしかにそこにいる。まず、次になにを作ろうかと考えているときが楽しい。キッチンには、すでに食材や調味料がある、あるいはない。だから、なにかを買ったり、買わなかったりすることによって、なにかを作る。それは既存の料理のときも、そうではないときもある。昼食として、よく分からないパスタをよく作っている。家にある肉と野菜を炒めたり煮たりして、直感的に味をつけて、それにパスタを絡めて食べる。おいしかったり、おいしくなかったりするが、あまり味にこだわりはない(おいしい方がいいな、と思ってはいる)。あとから正解か不正解か決められるパズルだ。そんなもの、他にあるだろうか。

それは書くことに似ている、そう言えるかもしれない。まず材料を集める。そして手を動かす。作り始める前に完成形を思い浮かべはするものの、作っている最中は、その想像通りにならないことを願っている。思いつきで豆板醤を入れると、すごく辛くなる。それに似たことは書いているときにも起こる。できあがりは工程の先にあるはずなのに、それならば想像通りにできあがるはずなのに、そうならないことが多くて面白い。面白いと楽しいは近い。自分が書いたとは思えない文章が、自分が作ったとは思えない料理ができあがるときもある。頻繁に奇跡が起きる。

料理を楽しむように、書くことを楽しめるだろうか。あの時の私は、母の病を、なにかを感じながらそこにいる私を、物語に託して、あるいは委ねて書いた。「魂の本」の兄は母であり、兄は父であり、僕は私だった。不謹慎かもしれないが、それは楽しかった。楽しいと悲しいは似ていて、悲しみを飲み込むためには、楽しむ必要があった。

それから私は死に触れて、圧倒されて、書けなくなった。その記憶は材料にならないまま、今も胸の内に収められている。リハビリをしなければならなかった。ここ数日の文章がそれで、もう一度書くことを楽しむ私になることが、今年の目標の一つだ。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤