眩暈

ブログ「いらけれ」

その三月に、考え事をしながら歩いていると、覚えていなかったことを思い出すから不思議だ。こう書いて、本当にそう思っていると思われるのは不本意だ。思い出したのはすべて覚えていことだ、しかし、頭の海の水面から顔を出すまで、その存在を感知することは叶わなかった。
思い出したのはキムタクのエピソードだ。中居君の会見からこちら、ずっと彼らのことを考えていた。以前私は「あの会見は、キムタクには出来ないだろう」と書いたが、それはネガティブな意味ではなかった。フレンドパークを見ていた。ドラムのような機械をパターンの通り、リズムに合わせて叩くと音が出て、それで曲を当てるというゲームをやっていた(懐かしい!)。その時キムタクは回答者だった。誰が音を出す役回りを担っていたかは忘れてしまったが、ほとんど音を出せないまま終わった。しかしキムタクは、少しのヒントと、鳴り続けていたベースラインだけで、問題となっていた曲を当てた(「スニーカーぶるーす」だと記憶していたが、これは勘違い。「ギンギラギンにさりげなく」だった。ちなみに、叩いていたのは慎吾ちゃんだった(検索した))。
それまで、そのような形で正解した人はいなかったから、今ならばヤラセと疑われるかもしれないが私は、そういったことに興味はなかった。誰もやれないようなことをやってしまう人、あるいは常に、そうした振る舞いを周囲から期待されてしまう人が、私たちの世界ではなく、向こう側にいるスターなのであって、スターの中のスターがキムタクなのだから、結局はニンに合ったというか、その人らしいことしかできないということであり、その人らしく振る舞うべきだということでもある。
そういえば、「世界に一つだけの花」という曲もあった。

細長い棒が突き立った畑は、住宅街のなかにある。東村山らしい光景とは、このようなものである。その棒は鉄製で長く、私が見上げなければならない位置に頂点があった。頂点には、なぜか厚手の手袋が被せてあって、丁度良い大きさだったのか、綺麗に中指が立っている。世界に向けて中指が立てられている。それを見る私は、そこにいるつもりではなかった。行き当たりばったりでそこにいた。だから私は、行き当たりばったりを批判することができなかった。もしかしたら、私の行き当たりばったりな人生が流れ出て、世界を汚染してしまったのかもしれなかった。事程左様に、世界は下らなかった。中指を立てる気力すら湧かなかった。今から私が人生を立て直せば、世界は救われるだろうか。何一つ判別はつかないまま、ただ私の立つ道は、遥か先まで続いていた。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤