SNSは、リア充アピール(あるいは非リア充アピール)という、満足の表明をし続けなければならない仕組みですよね。満足というか、充実というか。
発信するものが、ネガティブなものでも、たとえ不満を漏らす声だったとしても、それは慰みであって、裏面の充足の表明として機能している気がしています。(私の中では「ご冥福をお祈り~」問題とつながっています。)
これを『断片的なものの社会学』「手のひらのスイッチ」と合わせて考えると面白いと思います。(良い本だからみんな読もうぜ!)
SNSは、リア充アピール(あるいは非リア充アピール)という、満足の表明をし続けなければならない仕組みですよね。満足というか、充実というか。
発信するものが、ネガティブなものでも、たとえ不満を漏らす声だったとしても、それは慰みであって、裏面の充足の表明として機能している気がしています。(私の中では「ご冥福をお祈り~」問題とつながっています。)
これを『断片的なものの社会学』「手のひらのスイッチ」と合わせて考えると面白いと思います。(良い本だからみんな読もうぜ!)
人は環境。
その手に、世界中の情報が、スマートフォンは何よりその見やすさで、そして、世界中に向けて、「私」を出すという、もう慣れてしまったが、異常が日常になった。特にSNSとかやっぱりおかしいから。
分かりづらい形で浸透している苦しみに覆われていると思いませんか。きっと、もっと良くなるはずだったのに、そうはならなかった、という感じ。
改善策は、あるのかすらも分からないという状況で、みんなが幸せに暮らす方法を考えている。
わーーーーやったよーーーー!!!!
と、ひとしきり喜んだので非常に疲れております。
応援するというのは不思議なことだけど、本当にいいものだ。それが報われたなら、なおさら!!
だから今日はもう終わり!!
死んでもいい人がいないのと同じ、生きていていい人はいない(と私は考える)。
やはり意味は無い、意味が無いからこそ救われる。しかし、無意味であるからこそやるせないということもある。
今は、何でもないものとしてありたいと思う。