ブログ「いらけれ」

僕のポッドキャスト「ボイスメモを公開する。」が更新されています。「2018/06/05 今日のボイスメモ」
一人で、外で喋ることにもだいぶ慣れてきた感じはあるね。ただ、独り言はどうしても自省的になってしまう(懺悔、告解を想像する)。別の語り方へ変身していきたい。

ラジオばかり聞いている。
「荻上チキ・Session-22」特集「ヘイトスピーチ解消法施行から2年。ネットはヘイトにどう向き合うべきか」
人間の邪悪さ、あるいは邪悪な行いに対して、どう向き合うかというときに、様々な対処法があるんだけど、そういう時に「テクノロジーで対処する」っていうのが出てくる(社会学者の鈴木謙介氏のブログ記事「雑記20180212」なども参考になる)。この、特集の中でも、そういう話が出てくるし、ちなみにバックファイアー効果の話(過去記事「信じるということ」)も出てきて、聞きながら色々考えた。例えば、差別的な言葉をツイートしようするとエラーを返すようにするとかも、やろうと思えばできて、それにはそれの問題点があると思うんだけど、僕はちょっと違うことが気になっている。
最近ラジオCMで「もし心を許した人間が元少年Aだったら」っていうのがあって、で、やっぱりこのストーリーが多くの人に訴求するのは、皆元少年Aが身近にいたら嫌だとか、怖いだとか思うからだろう。でも、元少年Aは(詳しいことは分からないけど)少年院だったりで"更生"を目指した教育を受けているはずだから、それを信じるのならば、元少年Aだろうと何だろうと構わないという考え方もあるはずだ。でも、そう思えないのは、私たちが教育を信じられないからで、私たちは教育をどう捉えるべきだろう、と思う。
差別を、ヘイトスピーチをする人間と、面と向かって丁寧に話せば相手が変わってくれると、私たちはどれくらい信じられるだろう。きっと私たちはそれを信じない社会に住んでいる(そういう社会になっている)。相対主義的に考えるのならば、良いとは何かを定義できないのだから、教育は無理……とか、色々原因や要因もあるだろうけど、とにかくそうなっている。そもそも、好ましい方向に教育するのは難しいし、愛情を込めて悪い教育をする場合もある(タックルをけしかける奴もいる)。
「教育できないんだからテクノロジーで」って言われたら、反論は難しい。でも、人間の人間としての何か、人間の尊厳に期待するのならば、テクノロジーでヘイトできないようにするのではなく、ヘイトをしないような人間を教育し、ヘイトをする人間に止めさせるよう話し合って働きかけるべきではないか。
私たちは何に期待し、何を信じるべきか。人間に期待するのか?大きすぎて難しい問いで、まだ僕には答えられない。
そんな感じで、また明日もラジオの話をしよう。

この不浄の血が、サラブレッドの条件なのだとしたら、そんなものいらない。私が一生を賭けざるを得なかったもの。それには、常に父の影が付き纏っている。だが、悲しみは、誰にも伝えることができないまま、私は死んでしまった。

ブルボン小林氏の連載「俳句ホニャララ」が終わってしまって(「Vol.22 この世に傍点をふるように」)すごく悲しい。
自分の知らないこと、自分が知らない世界はいくらでもある。ネット時代は特に。でも、だからこそ、知らないことってどうでもよくなっていて、知らないことは知らないというだけで興味なし、そして無視しがちだ(あなたはどう?)。本当は、自分が知っていることも、知らなかった時期があるはずなのに、だ。いつの間にか、自分の知っていること、好きなことばかり贔屓してしまう。
俳句ホニャララは、知らない世界(俳句という世界)の豊かさを、とても面白く、大変興味深く教えてくれていた。それが一番難しいこの時代に。内を外につなげるテクニックに、いつも、びりびりしびれていたから、とても好きだったのだ。
しかし、なくなったものはしょうがない。今度は、僕がそういうものを書けるようにならなければ、だ。

ブログ「いらけれ」

ああ、あと「常識と反対のことを言えば、何か良いこと言った風になる問題」についても、真剣に考えなければ。「人は死んだら居なくなるわけではないと思う」とか、「人生は一度きりというところから疑ってみる」とか。常識をこかせば、良いこと言ったことになるなら、誰でも良いことを言える。そして、そういう「常識こかし言説」には、良いことじゃないことが混ざっている。良いことと、良いこと風は違う。そもそも問われるべきなのは、良いこととは何なのか、ということだ。

僕が「荻上チキSession-22」で最も好きな瞬間は、本当にひどい答弁や改竄、不正やヘイトについてチキさん(荻上チキさんは「チキ」じゃなく「チキさん」で検索しているらしいよ!!)が流暢に解説しているときに挟まれる、アシスタントの南部さんの本気で呆れてる呟きやため息ですね。「あー、いるなー普通の人がそこに」って思って、リスナーはみんな普通の人だから、だから代弁者としての機能というか、僕の代わりにため息ついてくれてる気までする。本当にひどいものが現代日本には存在し、で、普通そこまでひどいものに対してはため息だよねってホッとする。

「勝負への執念は昔よりある」 山崎隆之NHK杯選手権者インタビュー

山崎 家族や親戚に対局を見てもらえるのは励みになります。昔は「頑張って」と言われるのが苦手でした。勝負は自分しだいで、混じりっけのないもの。他人が入ってきて、人間の情に左右され、いびつにされるのが嫌だったのです。
今は、応援されると素直にうれしいです。純粋なものは懐かしいけど、それではもう戦えない。つぎはぎでいいです。その代わり、つらいことをモチベーションに変えるとか、幅が広がりました。

このインタビューいいなあ、と思った。山崎八段、愛情を込めて山ちゃんと呼ばせてもらうけど、山ちゃんといえば、将棋のことしか考えてなくて破門されかけた少年時代(将棋ペンクラブログ「森信雄六段(当時)と山崎隆之少年」)。そういう背景を知っていると、より多面的に世界が、ああ、僕に伝わってきて、ああ、僕は感動してしまう。
プロ棋士は勝負師でもあって、基本的には、眼前の相手を負かすことで自分の生活がある。優しい人ほど苦しんだり、真面目な人ほど辛かったりもする世界。将棋を極めるだけなら最善手を探せばいい、しかし、勝負は時に最善手が必ずしも最善と限らなかったりする(「長い詰みより短い必至」って言うよね)。勝負が人間を剥き出しにするのか、そういう世界に生きる人たちの語る言葉の凄みは、やはり、そうでない人たちにとっては新鮮だ。だって、そういう世界にほとんどの人は住んでいないからさ。

そうそう、『カフカ式練習帳』のあとがきを読んでいて、「演奏家にとって重要なのはコンサートより日々の練習の方なのではないか。」っちゅう一文があったんだけど、これを読んで、「棋士は研究が仕事、対局は集金」という将棋界の格言(?)を思い出した。これ、競輪選手の滝澤正光さんの「練習が仕事、競技は集金」という言葉がもとらしい。で、だから、どの世界でもそうなんじゃないだろうかと思った。どの世界でも、対象に日々向き合ってる状態こそが仕事で、その成果が人の目に触れると、お金を払ってくれる人が出てくるから、結果としてお金に変わるのではないかと。
ブロガーにとっては「毎日の考察や、無数の下書きが仕事、記事は集金」なのだろうか。集金できてへんけど。

今日は真っ青なあじさいを見た。本当に真っ青。どうしたらそこまで青くなるのか、駄菓子みたいな青色だった。あじさいは、その色が赤色から青色まで、それがグラデーションで存在しているのがいい(白色もあるよ!)。ひとつの株に、花(僕たちが花だと思っているのは、実は萼らしい)が集まって大きいものも、小さいものも、また、赤色も青色も混ざっていたりする。だから、いつ見ても飽きない。

明日は人間と教育と、その捉えられ方の問題について書くけど、そんなことより仕事を探さなくてはならない。本当にこのままでは終わってしまうので……今日は以上!(お仕事ください)

ブログ「いらけれ」

「こんにちは」
こんにちは、と珍しく挨拶からブログを始めてみよう。そろそろ僕も「キャラ変」しなくては、マンネリだから。「キャラ変」しようと思ったのは、「スワローズの隠れイケメン・田代将太郎の心を動かした先輩からの電話」を読んだからではない。いや、読んだからかもしれない。自分の深層心理は、自分でも分からない。私は、私が考えていることが十全に分かっているわけではなく、それは……と、いつも通りのブログに戻っていってしまうのだった。

今書いてるのは朝方で、というか早朝で、そうなったのは肩と首のコリからくる頭痛で、震えたり、寒気がするのに汗をかいたりしてて、苦しんでたらいつの間にか寝ていて、起きたら朝だったから。
頭痛の、あの普段の生活では想像もつかない痛み。そして、全ての能力を奪われる感覚。頭痛の最中にしか考えられない人間存在の謎があると思う。そんなのないかもしれないけど。
つーか、まだ十分回復したわけではなくて、頭が働かない感じがあって、文章が面白くないとしたら、そのせいだと思う。違うかもしれないけど。

・イタリアの難民問題(「荻上チキ・Session-22 特集「イタリアでポピュリズムと右派の連立政権が発足へ。その背景と影響を考える」」)から思いついた、「難民問題とゾンビコンテンツのリアリティ」
藤田直哉さんのツイートから思いついた「camp copeとライオット・ガールムーブメントの関わり」
・菊地成孔さんの連載(「エヴリシング・ハプンズ・<ミー・トゥー>」)を読んで思いついた「#MeTooと改竄され得る記憶や感情」
などなど、色々思いついてはいる。色々思いついてはいるんだけど、それについて書くだけの能力や知識がない。歴史を知らないし、資料を集めることも難しいし、英語は読めないし、加えて、まとめて読ませるだけの筆力もない。正に慙愧に堪えないという感じだが、しかし、「能力や知識がないなら、それを付けるように努力せよ」などと、〈私に〉言ってはいけない。なぜなら、その正論は人間を、〈私を〉追い込むから。〈私を〉追い込まないでくれ!

ツイッターで、バズるおもしろツイートの文体みたいなのってあって、それさえあればどうやら内容とかどうでもいいらしくて、僕はそういうのを見かけると本当に辟易とするんだけど、バズってるから、そうじゃない人が多いらしい、そのことも嫌だ。
あと、男性で30代後半からそれより上のライターとか評論家に、冷笑系というか皮肉を言っている人が多くて、そういう皮肉的なシニカルな態度を見ると、自分たちの世代にはない感じで、自分たちの世代にはそういう人いないなあと思ったりする(たぶんダサいと思われるから)。だから、皮肉を読むと「おじさんかな?」って思うってことなんだけど、なぜ皮肉やシニカルなことを下の世代が言わなくなったのかについては、考察対象として面白いと思っている。

進路相談をしていた。担当教師の「あなたは好き勝手書いているだけで、たいして面白くないのよ」という言葉に深く頷いていた。教室の大きな窓から夕日が差していた。この町から富士見町という名の通り富士山が見えていたのはいつまでだったのだろうか。窓から外を見る。校庭にはキリンが一匹いた。キリンに夕日が差していた。

「小説家、草花に詳しすぎ問題」について語りませんか?「仕事を終え、帰る道のその傍らには夾竹桃が咲いていた。」とか「隣家の庭に毎年夏になると芙蓉が咲く。」とか書かれてても、パッとは想像できないよ!つか、あんたはなんで花の名前知ってんの?ってなるアレについて。
でも、これ「皆が想像はできないが、想像してほしい風景についてどう書くか」という問題だと捉えなおすと急に深くなるな。皆が想像できるからといって桜やタンポポばかり小説に出すわけにいかないし。
あ、もしかしたら「俺が草花に詳しくなさすぎ問題」なのかもしれないけど、それは……それ。

「2018/06/05 今日のボイスメモ」

ブログ「いらけれ」

「2018/06/02 今日のボイスメモ」
「ボイスメモを公開する。」が更新されてますよ!今回は30分を超える長尺となっております。しゃべってて、楽しくなっちゃって、長くなっちゃって。公園で一人、30分しゃべっているんだなーと想像しながら聞いてください。

登山は危険が伴うわけだけど(ちょっと前にラジオで聞いた)、「危険じゃない」とはどういうことかと、それについて考えていた。誰かが、ジェットコースターは何年かに一度事故が起こるからスリルがあるのだって言っていたけど、今ならVRとか、未来なら脳に電極とか?で、事故の起こらない絶対安全なジェットコースターを再現することができる。再現というか、五感を操作して、身体にかかる負荷とかまで全く同じというような体感が得られるのならば、それは、実際にジェットコースターに乗るのと何が違うのだろうか。違うのは、事故によって現実の身体に危険が及ぶことがないという点だけではないのか。僕たちは、「VRジェットコースター」で満足するだろうか。あるいは、それは死が骨抜きにされた偽物でしかなくて、僕たちの中の〈死の欲動〉が満足しないのだろうか。これから僕たちは、どちらを選ぶのだろう。

批評家を批評した本が出版されたというツイートを見た。その時まで、あまり気にしていなかったし、普通のことだと思ってた。批評家についての本なんて、数限りなくあるもんね。でも、よく考えてみると、批評家の批評ってすごい。何かについて書くのでなく、何かについて書く人について書く。批評家の批評をする批評家の批評をする批評家の批評を……ってどこまで行けるんだろう。最初の批評家によって語られていた芸術作品のアウラ(?)が、後ろの批評家に行けば行くほど、ちょっとずつ薄まっていったりするのだろうか。それとも批評家の表現行為自体がアウラを持っていて、だから批評家の批評が可能なのだろうか。よく分からんけど。

ジダンがレアル・マドリーの監督を辞したってネットで見て、もちろん驚いたんだけど、「ペップ-モウリーニョ以降の監督業」ってのは、1サイクル3~5年くらいと見られている節があり、それ以上長く一つのチームを監督するとマンネリになっていくと思われているっぽいよね(もし可能であれば、グアルディオラとモウリーニョのウィキペディアを確認し、その監督歴を見てみてほしい)。もう20年トップクラスのクラブの監督する人なんて出てこないのだろうか。チームの顔みたいな監督がいるのも個人的には好きなのだけど、でも、ビジネス的に大きくなりすぎている現代フットボールでは、さすがに苦しいだろうね。

ゆっくりと上がる跳ね橋を見ていた。大きな木の下にあるベンチ。飛び始める大きめの烏の、その羽の音が聞こえそうなほどの飛び立ち。複雑な川面のきらめき。6月の無風の午前中、23度の気温。日々の空白。あれからもう何年も経ってしまった。あらゆる後悔と、そればかりではない懺悔。私の視線の中に人間はいなかった。しかし、彼女は人間の姿をとらずにそこに居た。私が気付くことはなかったのに、それは本当だった。

「InterFM897 Music Mix」は、本当に重宝している。往年の名曲やスターの新作だけではない、「ひっそりとだが確かにあった音楽」を流しているからだ。5月30日AM5時からの番組で、Papercutsの「Future Primitive」や、tiernanの「The End of the World」(すごい歌詞だ)Gang Gang Danceの「Lotus」をかけた人(人々?)が、この日本のどこかに確かに居て、そのことに、とても勇気をもらっている(この心強さが分かるだろうか?)。だって一銭にもならないでしょうし、聴取者受けも悪いだろう(僕みたいに、まだ見ぬ新しい音楽を常に探している奇特な人間は少ないはずだ)し。そして、YouTubeの再生数が全てじゃないんだってその心意気に。選曲者には「ありがとうございます、頑張ってください。僕も頑張ります。」って伝えたい。