※歩きながら撮ったので、変な写真ですね
神宮に行くとなると遠くて大変なのですが、西武ドームは近いので昨日見てきました。
ヤクルトファンの僕からすると、残念な試合でしたが、菊池投手のノーヒッターを阻止、からの猛攻を見ることができたので満足でした。
石山投手の一軍復帰登板も見られたし。
しかし、石川投手は心配だなぁ。何か打開策があるといいのですが……。
話は変わって、今日は「渋谷らくご」へ行きます。すばらしい会なので皆様もぜひ。
感想もいつか書きます~。
※歩きながら撮ったので、変な写真ですね
神宮に行くとなると遠くて大変なのですが、西武ドームは近いので昨日見てきました。
ヤクルトファンの僕からすると、残念な試合でしたが、菊池投手のノーヒッターを阻止、からの猛攻を見ることができたので満足でした。
石山投手の一軍復帰登板も見られたし。
しかし、石川投手は心配だなぁ。何か打開策があるといいのですが……。
話は変わって、今日は「渋谷らくご」へ行きます。すばらしい会なので皆様もぜひ。
感想もいつか書きます~。
もう”ネットスラング”といえないほど広まった言葉たちですね。語義も、変遷してきたものが、ある程度固まってきたように思います(もちろん今の時点ではということです)。
私は、高校三年生になる数日前の3月24日から、9月24日までの半年間、日記をつけていました。どうやら、高校生として最後の年に、何か残しておきたかったようです(頼むから受験勉強をしてくれ!そして高3で中二病はないだろう!)。
読み返せば、じーんとします。「この日記は誰にも見せない」と書いてあるので、彼を尊重して、書き写したりはしませんが……ヤヴァイ。ポエム書いてる。コラムニスト気取りのものもある。「人生とは……」というようなことばかり書いている。ヤヴァイ、確かにヤヴァイ(でも、それって今と同じじゃね?あんまり変わってなくね?とか言わない!)。
でも、そんなに悪く言わないでって思うんです。人生いつも黒歴史、永遠の中学生としての、皆様へのお願いなんです。
もう17、8歳のころは遠くになりにけり。心持ちは分からないけれど、そん時はそん時なりに考えて、良いと思っていたのです。そして、今の私も、これで良いと思っているのです。だから、昔の自分も、それで良いと思っています。少し恥ずかしいけれど。
何かに一生懸命だった自分は、何かから離れてしまった自分からは、滑稽にうつる。だから、否定したくなる。それは、他者に対する視線にも同じことが言えますよね。何かに一生懸命な他者を「痛い」「イタい」と形容するようなものとして。
冷笑的であることは、そんなに悪いことではないと思います。でも、そのことが自分を苦しめたりするよねってことで。
過去の自分の精一杯を、他者の懸命さを酷く揶揄すれば、あるいは全く切り捨ててしまえば、今の自分が精一杯に、懸命になりたい時に邪魔になると思うんです。だって、未来の自分に否定されるかもしれないし。
そんな時代もあったねと、そんな人もいるのねと、軽く受け止める。茶化してもいいけど、馬鹿にしすぎない。今の自分は、未来の自分に笑われるだろうけれど、それはそれでいい。そんな感じがちょうどいいんじゃないかなあ……と思います。
※書きえないものを、書くということから はやくも第三回だぜ!次回あたりから方向性を変えていこうかなと考え中。
保坂和志の『未明の闘争』の冒頭はこんなふうに始まる。以下引用。
西武百貨店の手前にある「ビックリガードの五叉路」と呼ばれているところで、私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。
どのように書いてもいいのだ。読む者を”喚起”さえすれば。
読む者の中に生成されたものは、書かれてはいない。しかし、書かれていたからこそ生成された。
読む者を”喚起”する……そのように書くにはどうすればいいか。
肩の力を抜いて。
ブログを書くようになって、本を読むようになった。
書くことと読むことのつながりを感じる。
アニメも見られるようになるのだろうか。少し難しいような気もするが。なぜ見ることができないのか、自分でも分からないところもある。
なんとなく、凝視しなくてもいい感じがダメなのかもしれない。物語、あるいは映像の引き付ける力。
記号的な表現が多いアニメにそれを求めるのが筋違いなのかもしれない。
映画を観るようになったのも大きい。アニメをみるなら、映画をみようと思うときも多いし。
音楽だけはずっと聞いている。これからもずっと聞くだろう。