映画の話

コラム「後藤の超批評」,批評,映画,書き起こし

ラジオ「とくにないよね」2016年09月25日第九回 「映画の話」より書き起こし

G=後藤
O=押川

※『怒り』『聲の形』への批判と、『ハドソン川の奇跡』について。
一応ネタバレはしていないつもりですが、未見の方は注意してください。

G「どれが聞きたいですか」
O「そうね、まず、まあ『怒り』か」

G「『怒り』は……公式サイトとか見てください、あらすじは。でね、ネタバレではないんだけど、一番問題だなと思ったのは、『怒り』ってタイトルじゃん。で、その怒りって何なの?ていうのが多分、物語の一つの軸だと思うんだけど。
公式サイトとか見てもらえば分かるんだけど、三つのそれぞれの事情のある人がいて、殺人事件の犯人が、どれかにいるっていう物語なんだけど、どれか分からないで、信じるのか、疑うのかっていうお話なんだけど。犯人は、殺人現場に血文字で「怒り」という文字を残して、それが事件の始まりなんだけど、その怒りの根拠が…えっていう(笑)え、そんなことというか、一番くだらねえの。それが気に入らなかったかな。「怒り」っつてんだったらさ、そこがフックになってて欲しいよね、それを見て「そういう理由で怒ってたんだ」が欲しいんだけど」
O「あー」
G「下らなかったなと」
O「ま、それがいいんでしょうね、くだらない怒りが。え、そんなことでっていう方が。そんなのばっかじゃん、実際に起きていることが。きっかけがそれであって、それをトリガーにしたかったみたいなことなのかな」
G「ま、見てないんでね」
O「そ、そういうことしか言えないけども。それが『怒り』か」
G「でも、それぞれ、ある種の周縁に、本土に対しての沖縄とか、ゲイの人たちであるとか、知的障害があるだとか、それを全部一言で周縁ってまとめるのは雑かもしれないけど、そういうのが描かれていて、そこだからこそ信じるとか信じないとかという問いが起きてしまうというか。世間から差別されてたりする人たちが、そこに来た部外者信じられるの?っていうと、「うー」ってそこで悩んじゃう、そういうのを描こうとしてるんだなって、頑張ってるなというのは」
O「あー」
G「ただね……どうかなあってところも多かったかな。」
O「『ハドソン川の奇跡』は?」
G「最高でした、以上」
O「そう、へー。『キャプテンフィリップス』みたいなイメージなんだけど、俺『キャプテンフィリップス』見たことないんだけど。」
G「どういう意味ですかそれは」
O「なんか船の上での話みたいな」
G「(笑)まず、飛行機の話です」
O「あ、そうなんだ。知らなかった」
G「川に不時着した、本当に川に不時着するしかなかったのか?というのを調査する人たちがいて、機長は世間ではヒーローって言われてるんだけど、データ見ると「あれ、これ空港に戻れたんじゃないですか?」とか、「他の空港着陸できたんじゃないですか?」ってことをデータとか、シミュレーションとかでね。本人も自分の決断はほんとに正しかったのか、その、ニューヨークの冬はとても寒いみたいで。川に着水するから。お年寄りの方とかがね、危険になるわけで、もし他の選択肢があったなら、人の命を奪う可能性があったわけだから、正しかったのかと自問自答していってしまう。自分としては、40年やってきた勘で、間違いなくあそこは不時着するしかなかったって信じてたんだけど、データを見せられたりすることによって、少しずつ疑念がわいていくんだけど……最終的には、最高でした。」
O「ふーん」
G「はい。テクニカルに上手すぎた、多分。退屈しないし。だって、事故が起きてから不時着するまで208秒ですよ。208秒って4分ない。それしか現実には、ま、そっから助かるまでの時間があるんだけど、それでも30分くらいの事件を2時間で描く」
O「そうかー」
G「全部描くわけじゃないからね、救助されてるシーンいちいち描いたところで何もないから、カットしていくわけじゃん。だから、事件として描かれる時間は15分とか、でも、繰り返し描くことで、機長の臨場感を伝えるシーンもあれば、本当はどうだったんだろうってこっちが検証するシーンになってたりとか、同じ飛行機の墜落シーンよ?これが初めて見るから、ほんとに助かるのかこれ、ってシーンもあれば。助かるのは知ってるんだけど。
あと、最初にその事故で始まらないのよ、そこがおしゃれ。中盤で初めて事故のシーンが。最初の時点で、事故が起きた後から始まるのよ。事故が起きて、その対応正しかったんですかって問われるところから始まるから。事故後の世界から始めて、途中事故が挟まってという」
O「あー」
G「時系列の組み方とかもすごい、イーストウッド違いますねって何か言うのもおこがましいけど。大名匠ですね」
O「あれでしょ、ウエスタン映画なのに、イーストウッドっていうね」
G「……そうだねえ」
O「映画三昧やなー。クリントイーストウッドなー、70、80かな」
G「『聲の形』の話していい?これが議論を巻き起こしてるのよ」
O「なにが?」
G「あのね、『聲の形』ってどんな話かっていうと、ある小学校に女の子が転校してきました。その子が耳が聞こえません、それで、後ろの席にいた将也くんという少年は、その女の子をいじめてしまいます」
O「そうそう」
G「それで、その子が転校して、今度はいじめてた少年がいじめの被害者になってしまいます。で、その少年が高校生になって死のうかな?と思って、思ったんだけどやめて、もう一回いじめてた女の子に会ってから死のうと思って、でもやめて、今度はいじめてた女の子と友達になるというか、で、さてどうなるかっていう」
O「そうそう」
G「それが、いじめ加害者に、ちょっと、都合のいいファンタジーなんじゃないか、って一部批判が起きてるんですねー」
O「そうなんだ」
G「個人的な感想を言うと、確かに問題のある作品だと思った。なぜなら、単純に、加害者が被害者と仲良くなるから駄目だ、と言っているのではなくて。加害者には、加害者の論理があるわけよ、で、加害者でもあって被害者でもあった少年にも、理屈があって、被害者の女の子にも理屈があるわけよ」
O「うん」
G「その理屈は全部、一つの考え方でしかないわけよ。それは、例えば、いじめはいけないから一生贖罪しなければならないという考えがあるとするじゃん?それってでも、間違っているでしょ」
O「うん」
G「例えば、どんだけいじめられても、許す心を持ち続けなければならないんだ、というのも一部正しくて、一部間違ってんじゃん」
O「うん」
G「いじめられたから自殺しよう、も、いじめてる奴を殺してしまおう、も、間違ってるっちゃ間違ってるよね。で、それは、ある面で、逃げ出すとか、贖罪するとかっていうのはあるところでは正しいけれども、それが世界の全てってわけではないじゃん」
O「うん」
G「例えば、いじめられてる被害者にも、悪いところがあるんだって考え方もあるよね、いじめられるようなことしてたからいじめられてたんだ、という。それも、一部では正しいのかもしれないけれど、確実に間違いを含んでるよね」
O「うん」
G「で、出てくるキャラクターがそれぞれ、そういう色んな価値観をもって再開するんだけど、いじめっ子といじめられっ子が、でも、結局考え方変わんないの、その人たちは。
それが、何か出来事があってみんなそれぞれ違った……あ、出来事はあるんだけどね。自分たちからこう、その問題に向き合って、お互いの考え方とか価値観を確認しあって、で、その、別れるなら別れる、仲良くなるなら仲良くなる、っていうならいいんだけど、なし崩し的に仲良くなっちゃう」
O「うーん」
G「出来事っていうのは、陽的とうか、明るいことじゃなくて、ある負の出来事が起きて、彼らは結果的に、最後集まって仲良くなるんだけど、それって、それこそ地獄の始まりなんじゃないかって、藤田直哉さんて批評家の方がツイッターで言ってたんだけど、結局そいつら集まっても、考え方がバラバラのままだったら地獄の始まりでしょ。そういう問題が全然解決されてないのに、仲良くなってしまうのが、すごく問題だと思った。
で、なんでこれそうなるかってのが面白くて、これ事前打ち合わせでも話したんだけど、『けいおん!』の監督なんだよね。で、最後の仲良くなるのって『けいおん!』的価値観と言えると思うんだよ。『けいおん!』的価値観って俺の中でだけど、根拠っていうか……人なんて根拠なく仲良くなるもんだけど、前提として仲良く……これカットできるからすごい悩むんだけど……なんていったらいいと思う?」
O「うん?」
G「えー10分経過。えー」
O「理由なき」
G「20ぷ、あ、それそれ。
理由なく仲いいわけでじゃん、彼女たちは。それはアニメ的ファンタジーではあるよね」
O「まあそうだね」
G「あのいちゃいちゃ。あれはアニメだから許されることだよね。で、俺から見ると、『聲の形』の最後に、例えば、加害者で一番悪意をもって被害者であった女の子に対して接する女の子がいるんだけど、その子が最終的にはツンデレみたいなキャラに描かれるの。だったり、いじめの現場を見てたのに、自分からそれを正そうとしないで笑ってみていたような、結果的に加害者であったような女の子は、ちょっとそういうときには何も言えない、おしとやかなキャラになったり、っていうことになっていくわけ。それは、俺は、アニメ的平行移動だと思うんだけど」
O「あー」
G「『聲の形』はリアル、リアリティのある設定というか、人をいじめたり、加害者になったり被害者になったりという、現実でもあるような感触から、アニメ的ファンタジーの世界に移行しているのね、だから最終的にみんな仲良くなれるし」
O「あー」
G「なんて言うんだろう、ぶつかり合いがなくて、ぶつかり合いはあるんだけど、それをこっちとしては納得できない変わり方というか、自分の考えが変わって、というわけじゃないから。そういうね、アニメ的、リアリティの世界から、『けいおん!』的世界への移行が途中で起こっていてそれで解決しているように俺には思えたの」
O「なるほどねー」
G「だから俺はすごくモヤモヤした」
O「うーん」
G「最初っから、アニメ的世界だったらいじめ起きないんだよね、最後まで現実的世界だったら解決しないはずなんだよ」
O「あーそうか」
G「そこをファンタジーで上手くガラッと、途中で寸断して移行しているから、途中で寸断してって言ってるけど、じわーっとだけどね、じわーっと移行して、それで解決してしまうという」
O「それは、非常に面白いですね」
G「ありがたい!」
O「これは面白いですね」
G「ずっと考えてて。褒める人も感動する人もいるわけ、それは俺も分かる、ものすごいエモーショナルだし。でも、現実だと考えたら絶対ありえないんだよなー、それはなんでかなー、これアニメだからだなって。アニメだから成しえた表現ともいえるよね」
O「うん」
G「現実だったらリアリティがない、で終わるところを、その、みんなに『けいおん!』の下地であったり日常系アニメの下地があるからこそ、その移行っていうのが不自然に、とくにアニメが好きな人には不自然に見えないんだろうけど、俺は実写とかの方が基本的には好きなんで、その違和感が大きく見えたなーというのがありました」
O「これは非常に面白いですねー」
G「(笑)立場どこなんだよ」
O「なるほどー」
G「もちろん、原作未読なんで、最終的な結末も原作にあったじゃないかと言われると」
O「あ、そうなの」
G「分かんない、読んでないから。言われちゃったら、俺の見立ては外れちゃうんだけど、俺の感想はそんな感じかなー」
O「非常に面白いですね」
G「ごめんね、知性担当なんで」
O「そのための、最初からアニメだったのかもしれないし」
G「そうねー、これは個人的な感想よ?あの監督やスタッフさんたちっていじめ問題描くのって目的じゃなかったんだろうなって思ったわけ」
O「うーん」
G「目的は多分、最後の結末?幸せなみんなを描きたくて、その前にいじめっていうのがストーリー的にあるわけで、それを解決させる、解決の手口がアニメ的ファンタジーに頼らざるを得なかったのかなって気はしたね。そこ徹底的に考えてないでしょ、って俺は思っちゃうわけよ。人と人とが、いじめ、俺もいじめられた経験あるし、いじめてたであろう、自分でいじめてましたっていう人間はほとんどいないと思うんだけど、結果的にいじめに加担してた部分って絶対あったはずだから、その経験則から考えて。ま、中学行ってないですけど。高校時代はみんな仲良かったけどね、でも、高校時代でもいじめあったよね」
O「そう?」
G「いじめられてんな、まじくだらねえなと思ってたけど、助けることはできなかった」
O「うん」
G「うん。そういうのって被害者と加害者って、そんな風には仲良くなれないじゃん、っていうのがあって。でも、そこ深刻に考えて突き詰めてったら、もっとすごい映画になってたと個人的には思う」
O「うん」
G「けれども、描きたいのはそこじゃないんだよな、描きたいのは幸せなみんなだから…そう、それでね、一回Wikipedia読んだの、そしたら監督のWikipediaに、なんか肯定したいみたいな、青春を肯定したいんだみたいな発言があった、でもこれWikipedia情報なので、間違ってるかもしれないけど、そういうことが書いてあって。我が意を得たりというか、やっぱりそうなんだと思ったね」
O「負の共有で仲良くなるっていうね」
G「負の共有っていうか、とある出来事が起きて、結果的に、向き合わざるをえなくなる、話さざるをえなくなる、でも、そこはパッパッと飛ばしちゃうんだけど、なんか結果的に粘り勝ちみたいな、粘ってたら仲良くなったみたいな(笑)そこのシーンカットされちゃうんだって思ったな」
O「非常に面白いですねー」
G「ありがとう(笑)」
O「難しいなー、俺も言葉にならないもん」
G「(笑)、映画見てこんなこと考えてた、こんな感じかなーと」

中略

G「俺が『怒り』に対して、怒った理由がさ、ごめんちょっと喋らして。いいんだよ?断っても」
O「いいよ」
G「結局、犯人は山神って男なんだけど、これは聞いても大丈夫なのは、あの、偽名を使って生活しているから、そいつ結局最終的に、サイコパス的な?」
O「うん」
G「要するに、堂々と嘘付ける人として描かれちゃうの。で、人を見下して暮らしてるの。でも、なんかそれ流行りだよねーって思っちゃたんだよね」
O「あー」
G「ありきたりな犯人像って」
O「そうだねー」
G「その男がなんで「怒り」って書いてるのか分かんなくない?って思っちゃたんだよねー。「怒り」って書くならもっとさ、信念がある人が怒る気がするんだけど。サイコパス的な人間と怒りってもっと違うんじゃないのかなーそこがやっぱ納得いかなかった」
O「そこはあれだな、作家の欲が出ちゃったよな」
G「ちょっとあるかもね、というか、理由づけに、人格づけに困ったんだと思うんだけど……『怒り』はねー、そこがどうしてもねー」
O「作家が知性をひけらかしたかったんだな」
G「そんなことはないと思う(笑)」
O「俺はそうおもうね」
G「(笑)お前見てないけどね」

中略

G「『聲の形』褒めとこうかな、最後に。めっちゃオープニングがいい」
O「あ、そう」
G「オープニングがいいし、画はずっといい、てか京都アニメーションの画になれてる人なら、絶対大丈夫だし」
O「あー」
G「でも、子供に見せるんだったら『ハドソン川の奇跡』見せたいなって、子供いっぱいいたんだけどね。なんか、でも『ハドソン川の奇跡』見て感動している子どもも、ちょっとしゃらくさいけど、アニメってだけでこれ見て、なんか、うーん何だろ、ちょっと「うーん」って思った。子供にもっと良いもの見せたいなって思いが」
O「うーん」
G「良いもの?京アニの作品だしクオリティは高いんだけど、なんか、なんかもっと世界を幸せにするようなものを見せてあげたいって思ったんだよなー。表現とかね、あのー、ちゃんとアニメと現実を往復して……なんか物語もね……やっぱ小学生時代の描写も、褒めるって言って批判になっちゃうけど」
O「うん」
G「大人が入ってるようにしか見えなかったんだよね。分かる?なんか子供のキャラに大人が入ってる感じ。行動原理とか言葉とか、大人が作ってるなこれって」
O「あー」
G「幼稚じゃなくて、作られた感じだな。幼稚な人間もっと早く飽きるしとか、分かんないけど、なんかちょっと大人が入ってる」
O「分かる、分かる」
G「これね『ウォーリー』って映画があって」
O「ああウォーリー(声真似)」
G「最初すごい好きだったんだけど、途中から何か、「あれ、これ人間が入ってんの?」みたいな。結局なんかロボットならではの感じなくなっちゃたじゃん、みたいな。人間による文明批判になって終わっちゃったなあって。最初の数十分素晴らしいんだけど。そっから先がちょっと、なんかその、子供だったり動物だったりロボットだったり、一筋縄ではコミュニケーションができないものとか、表現が拙いものとかを使って、大人が言いたいこと言ってるのって俺的には違和感がある」
O「あー、何なんかね、子供ならこういうはずっていうのがあるのか」
G「うーん」
O「か……俺さ、神戸で地方裁判所に行ってた時、ちょっとぐっと来ちゃったときがあってさ、こう傍聴席座って、で、後ろの扉から家族連れが入ってきたのね、お父さんとお母さんと。お母さんが子どもを前に抱いて、もう一人、喋れるくらいの子どもを連れて入ってきたのね、「ああ傍聴する人なんだ」と思って見てたら、そのうちお父さんだけが、あの柵を越えて」
G「証言……被告?」
O「被告の側に行ったわけ」
G「うん……被告?」
O「被告なの」
G「被告って……」
O「仮釈放的な」
G「おおお」
O「多分それだったと思うんだよ、後ろから入ってきて」
G「ドラマチックー」
O「だから、お父さんだけ、柵越えて……弁護士かな、右が弁護士で、左が検事かな、で弁護士側の」
G「真ん中に小林幸子が立って、すごい」
O「そうそうそう……メガ幸子や」
G「(笑)」
O「それはいいんだけど、そのー弁護士側に行って座ったわけ」
G「ごめん、真ん中小林幸子つまんなかったよね、申し訳ない」
O「まーまー、いいんだけどね」
G「(笑)許してくれるの優しい」
O「4、5歳くらいの男の子が傍聴席に座ってその時に「なんでパパあっちなの?」って言ったのね」
G「うわーリアリティ」
O「俺めっちゃぐっときっちゃった」
G「すごいリアリティですね」
O「すごいっしょ、泣きそうになったんだよ、俺、ちょっとお父さんもぐっと来てたよ」
G「それは」
O「すごいっしょ」
G「答えの言えない問いだね」
O「いいもん見れた―と思ったね、でも」
G「一生の宝だね、それは」
O「あれはすごかったよ」
G「「なんでパパあっちなの?」か」
O「すごいっしょ(笑)なんも言えないよね」
G「そういう子ども性を、作り物で描けってさ、俺たちが出来ないんだから、だし、過去の名作って言われてるのだって、描けてるから名作なわけ、世界中には駄作がいっぱいあって、みんな描けてないわけだから、描けって酷なのは承知で、そこまでいってほしいよね。なんだろ、その「パパなんであっちなの?」がグッとくる、シュチュエーションとセリフ、パンチラインだよね、映画見るならそういうのが見たいよね」
O「うん、見たい」
G「そこまで行ってる映画って」
O「なかなかないよな、それはすごいよな。映画を越えた現実の瞬間ですよ、なんつって」