ブログ「いらけれ」

そもそも、人間同士の愛の関係って矛盾しているじゃないですか。自分が誰かを愛するようになったとして、じゃあ、その誰かが、事故で体が動かなくなったり、病気で性格が変わったり、記憶喪失になったりしたら、愛するのをやめるんですかと。それは愛じゃないという気がしませんか。じゃあ、何をしても、どうなっても愛し続けるべきだとしたら、それならば今、嫌いなアイツも愛さなければならくなるはずだ。だって、その嫌いなアイツは、あなたが愛せるソイツが、事件事故、病気、家庭の事情といった要因によって、今、たまたまそうなっているだけなのかもしれないのだから。

(捕まったぐらいで友だちをやめるのは、そもそも友だちじゃなかったということだし、友だちのピンチには手を貸すべきだという考え方は素晴らしいけれど、でも、そういう余裕を見せられるのは大抵、その人が許せる範囲に犯罪が収まっていたからで、ちょっと喧嘩して逮捕されたとか、薬物使用がバレたということではなく、人殺しだったら許していないのではないか、と思う。)

現実の私たちは、友だちの嫌なところを友だちだからといって許したり、許せないのに友だちのふりをしたりして、なんで友だちなのか、友だちとは何なのかよく分からなくなったりしながら、日々を過ごしているのだろう。分からないのに分かったつもりで、誰かを友だちだと思ったりして。

だいたい僕は、そういう曖昧な世界が嫌いだし、社会もクラスメイトも、同僚も上司も、友人も家族も、すれ違う人も世界の裏側の人も嫌いだ。そのようにして、自分の美意識の中で、皆を平等に嫌いだから僕は、むしろ積極的に、すべてを平等に愛しているのだということが、これまでに伝わったことがないと思うから、皆が大嫌いだ。でも、僕の反対側に立つ、僕から一番遠い、僕の敵だって、愛しているぜ(こういうアイロニーが、本当に伝わらない!!!!)。

さて、そんなことより!会のブログにある通り、台湾から日本へ留学しているという女性が参加されていたのです!自分が、他の言語を覚えて、生まれた国の違う誰かと、対話できるようになれるだろうか(いや、なれない)と考え、さまざまなことを話しながらも、目の前の彼女を、本当にずっと、リスペクトしていました。すごい人はすごい(トートロジー)。また、考え方や言葉も深くて、蒙を啓かれることしきりでした。すごい人はすごい(二度目)。とにかく、自分が高校生だったころのこと、あと、今の自分を顧みて、わが身を恥じ入ったので、明日からは頑張るだろう、それか明後日には、僕も多分。(僕が彼女をいくら尊敬しているとしても、年齢も性別も違うという条件によって、今のジャパンにおいては、彼女と友だちになることは難しいわけで、だから、ここまでの文章で書いてこなかった問題が、まだまだ、友だちという概念には含まれているということです。)

来月は、「歩きながら考えるのと、ずうと座りながら考えるのとはどう違うか?」というテーマで、散歩することぐらいしか能がない僕には、ぴったりですね(こういうアイロニーだって伝わらないって分かっているのに、なぜ書いてしまうのだ!!!!)。急に真面目な話をするけれど、このテーマ設定がすでに興味深くて、いつも会に参加されている方が「歩くのは厳しい」ということで、来月は来ないというような話もあって、場を設定するというだけでも、誰かには小さくない障壁を設けることになってしまうのだが、ただ生活しているだけでは、僕らはそのことに気付かない。もともとの対話だって、(もちろん、手段がないというわけではないものの)今の状態では耳の聞こえない人が参加するのは難しい。このことにすら、このテーマが出される前は思い至らなかった。

このように、さまざまな気付きに満ちた素晴らしい機会ですので、読者の方には、ぜひご参加いただきたく思います。ご予約はこちらから。(これ、この一連の文章を書いた人が参加しているってことは、逆宣伝になっているのではないだろうか……)

ブログ「いらけれ」

はっきりいって、「友だち=○○」の○○に何を入れても(気が合う、そばにいて楽しい、価値観を共有できるetc.)、「○○=友だち」だとなぜ言えるのか(なぜ気が合うのか、なぜ楽しいのか、なぜ同じ価値観なのか)については、「そうだからそうだ」としか言えないものであり、掘っても掘っても答えが出てこないものだ。つまり友だちとは、「友だち=友だち」という同語反復のなかにしか生まれない関係なのではないか。

私たちは、友だちと友だちになる。まったくの偶然に、あまりにも生得的に。これは、今は友だちがいないという人には、救いになるかもしれない。まだ出会っていないだけなのかもしれない。そして、この奇跡(友だちができること)は確かに、誰かを救うかもしれない。しかし、あらゆる薬が毒にもなるように、友だちという関係は政治に利用されるし(私が、体育の時間にされがちな「友だちとペアを組んで」という呼びかけにトラウマがないのは、一つは不登校の時期が長かったという理由だが、もう一つは、クラス内政治に友だちという関係を利用していたからだろう。唐突な告白になるが、私は、学年が上がり、親友と周りからみなされている関係の人間と、別々のクラスになってしまう度に、新たな「親友」を作っていた。もちろん「親友」たちのことは嫌いではなかったが、彼らのことが好きだったか、今でも彼らと会いたいかと問われれば、口ごもってしまう)、「お前、俺と友だちだろ。だから、あいつを仲間外れにしろ」というように、悪用もされる。

このように、友だちという言葉、関係、概念について疑義を抱いている私が、対話のかき回し役になった部分があったのは(あ、そういえば「デモクラシーカフェ」の話でしたね!) 、始まる前から決まっていたことなのかもしれない。私にとって友だちとは(やっと後藤さんの友だち定義が聞けるんですね!)、クラスなどの狭い世界、あるいは日本というような大きな社会、もしくは広大な世界のなかで、二者以上の間に立ち現れていると、誰かが指さす(その誰かには、指さされる当事者がなることもある。「私たちは、友だちだよね」)関係のことであり、そのように指さされるのは、当事者たちにとっては非-孤立を確認するためかもしれないし、他者にとっては目の前の関係を型にはめて理解するためかもしれないが、とにかく方便でしかないのだと、そう考えているのだ。

私は、誰かから友だちと呼ばれうる、今の私と関係のある誰かよりも、例えば、数年会っていない高校時代の先生の方に親密さを感じていたり、好きな小説の作者や、あるいは小説それ自体、ラジオ番組、音楽、道ばたの石、枝、三月の水、桜吹雪の方を愛していたりするわけだが、これらは、さまざまな理由で一般的には友だちと呼ばれない(「音楽/映画/文学だけが僕の友だちだった」というようなことが言われがちなのは、当たり前のことだが、それらは普通、友だちとは呼ばれないものだから、あえて言葉にされるのだ)。

※この文章は、さらに広がっていくので、明日に続く。

ブログ「いらけれ」

はい、みなさんこんにちは。春を告げる桜も、すっかり散ってしまって、過ぎ行く季節を感じる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。私は、今月も「デモクラシーCafe@東村山」に参加してきましたので、そのご報告を書きますね(会のブログはこちら。内容の詳細は、リンク先をお読みください(ちなみに、会に先駆けて、私が先月考えたことはこちら。「泣いた」という話が書かれています))。

さて、今回のテーマは「友だちってなに?」。友だちという概念はありふれていますが、しかし実は、日常生活のなかであえて考え直したり、捉えなおしたりしていないものですよね。そして、考えてみると意外に難しい。なので、ここで一分、時間を取りますので、友だちとは何か、読者のみなさまにお考えいただきましょう。では、一分スタート。

(一分経過)

どんな答えを出しましたか?あなたにとって友だちとは?あなたが、そこで出した友だちの定義は、もちろん「あなたのだけのもの」です。それは、とても自由なのものであってほしいと思います。誰に何と言われようとも、あなたにとっての友だちとは「それ」であってほしいと思います。もし、何か「言いたいこと」があるようでしたら、コメント欄に書いていただいてもかまいません。とにかく今、この瞬間に、あなたにとっての友だち概念が定義されたと仮定して、この文章は進みます(そして、ここから文体が変化します)。

友だちの辞書的な定義は、インターネットで調べれば出てくるが(「友達(トモダチ)とは – コトバンク」)、『デジタル大辞泉』によれば友だちとは、「互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。」であるという。あるいは『大辞林 第三版』によれば、「一緒に勉強したり仕事をしたり遊んだりして、親しく交わる人。」と定義されうるそうだ(もちろんこれらも、複数ある定義の一つでしかない)。

そして友だちは、世間的には「素晴らしいもの」だと捉えらえれているといって、過言ではないだろう。さらに友だちは、多ければ多いほど良いものだと、世の中では考えられているようだ(余談だが、人気ライトノベルシリーズである『僕は友達が少ない』というタイトルの、「いない」ではなく「少ない」というところは、友だち過剰な時代を反映していて、とても面白いと思う)。

これは文句ではないと前置きしておくが、辞書が踏み込んで書けないのは、なぜ/どのように友だちになるのか、というところだ。社会に暮らしていれば、すれ違うだけの人ばかりではなく、それなりの時間を共にしなければならない人が生まれるが、同じクラスや会社に所属していても、席を隣にしても、友だちになる人と、友だちにならない人がいるのはなぜなのか。そして、知り合いから友だちへ、どのようにしてジャンプしているのだろうか。

※ここからが面白いのだが、明日に続く。

ブログ「いらけれ」

一日楽しかったなあ。まずは友人と「松濤カフェ」にいって腹ごしらえというか、腹ごしらえというより満腹の先まで行って、それは、サンドイッチを注文するときに、ハーフサイズで頼んでしまったからだ(ここのハーフサイズは、コンビニのサンドイッチより大きいものが、二つ出てくる)。人間は、なぜ同じ過ちを繰り返してしまうのだろうか。

土曜日で混むことを見越して、少し早めに会場に着いていたから、まだマシだったとはいえ、胃からくる苦しさは、公演が始まる直前まで続いていた。始まってしまえば、そんなことは気にならなくなった。胃の苦しさを忘れさせるほど面白かったからこそ、もっと混むべきだと思った。

柳家緑太さんは、トップバッターなのにマクラから大きな笑いを起こしていたし、落語も本当にうまい(と、素人ながら思う)から、それでも真打じゃないんだから、落語の世界の競争は大変そう。
小せん師匠はすごい。「蒟蒻問答」って、微妙に難しい言葉とか、すでに、あまり使われなくなっている親しみのない言葉が、結構出てくるのに、それでも大爆笑だった。
ブラック師匠は、こうして文章にして面白さなんて伝えられないよって思う。例えば、あの噺の途中の大きな"寄り道"について、いくらでも突っ込むことはできると思うんだけど、そういう行為がしょうもなく感じるほど、高座が面白すぎて。明日から「ブラック師匠を生で見たぜ。すごい面白かったぜ」って自慢しよう。
馬石師匠の「花見の仇討」!!!。宣伝されていた通り「大爆笑落語会」として、それまでの高座で成立していて、なんなら笑い疲れていたぐらいだったんだけど、それでも桜のように(馬石師匠が咲くところをモノマネしてたけど笑)抜けていて賑やかな人物たちが、桜のように炸裂していて、ほがらかな笑いで一杯になったぞ。満足感の向こう側だった。

こんな風にして楽しんだ後、地元まで帰ってきて、居酒屋で「楽しかったなあ」と語り合いながらお酒を飲んで、二件目のバーにまで行って、そして午前二時だった。久々の痛飲で、翌日は二日酔いでフラフラ、頭が痛かったわけだが、「デモクラシーカフェ」の日でもあって……ということで、明日に続く。