ブログ「いらけれ」

昨日の文章というかさっき書いたんだけど、君はなんでそういうことをするかね。そういう文章しか書けないのかね。違うんです、僕だって真っすぐな、理路整然としたものを書けるんです。なんなら、そっちの方が得意で、それでおまんま食べてるんです。しかし、はっきりとクソくらえだね、そんなのは。クソみたいな仕事、クソみたいな会社。辞めさせてください(練習)、つか辞めてやるって。えへん。そりゃ、誰も読まないというね。著しいアクセス数の減少。正直、落ち込むようなことばかりだけど、今までもそうだったように、これからもなんとかするしか、だって、他人に期待できることなんて、限定的なんだからさ。負けないよ!

楽天カードが簡易書留で来るっていうから、朝からそわそわしていた。出かけたかったけど、受け取れないで再配達になったら面倒だから、待つことにした。一度、午前中に配達が来たが、それはCDだった。変わった形の段ボールに入れられて、届けられた『LIGHT CORAL』のリイシューを手に取って、じんわりと感動しながらも、「前に中古で買ったときは2万もしたんだよな……」と、余計な思考が湧き上がってくるのを、必死に抑えていた。ネットで見られる配送状況は、朝から持ち出し中になっていたが、昼間に一度それが消えて、郵便局で受け取ったというところまで戻って、どうなっているんだろうと心配していたら、数十分後には、また持ち出し中になって、午後3時に玄関のチャイムが鳴った。それから散歩に出て、強い風に散る桜を見て、帰ったらポストにわさび風味のミックスナッツが入っていた。開けて食べたら、思ったよりも辛かったけど、おいしかった。
『LIGHT CORAL』を注文したのは4月が始まってすぐ、楽天カードへの申し込みは3月の終わり、ミックスナッツは3月の中頃に頼んだものだ。ばらばらの過去から、それらはすべて、同じ日に僕の元に届いた。このことが示すように、あらゆる人間の人生は例外なく、決断と偶然が混ぜ合わされたところに立ち現れる。

縁石とかによく乗るんです、僕。道の。とくに意味もなく。あと、ちょっとした段差を上るときに、ちょっとしたジャンプをしたりするんです。僕はまだ、20代をやらせてもらっていて、ギリセーフかなとか、勝手に思っているんですが、実際どうなんでしょうか。あと、これから先歳を取って、責任のある立場になったとしても、わけもなく縁石の上を歩いたりするのだろうかと、例えば、カルロス・ゴーンは、階段の最後の一段を下りるときに、少しジャンプしたりするのだろうかと、そんなことを考えることのなかった子ども時代は、本当に良かったと思いました。


高橋徹也『人の住む場所』

いつか夢見てた自分と今は少し違う
あきれるほど広い世界の中で肩をぶつけ合う人達

ブログ「いらけれ」

現実が一番シビアだ。何よりも増してそうだ。結構、わりとマジで、うまく動かない脳と心を引きずって、どうしようか悩んでいる。だいたいのことは、自分が悪いのだけど。生活がきゅうきゅうとしているのは、一方では、週に5日働くことの出来ないダメ人間だからだし、そして大したことのない大学にしか行けなかったことで、まともに就職できなかった(できない)のは、中学校に行けないダメ人間だったからだ。なんて夢のない話をしているんだろう、僕は。ずっと僕は、あらゆる局面で劣ってきたし、それはこれからもそうだろう。これから終わる人みたいになってるけど、終わったのは僕ではなく「ぷらすと」の方(一応、まだ「続きがある」という話もあるが)で、もちろんショックだけど、終わるだろうなと思っていたので、心の準備はできていた。

終わるのはおそらく、儲からないからで(儲かるならば、やめる必要がない)、でも、そこにこそ価値があるような番組だった場合、どうしたらいいっていうんだ。映画や音楽、アニメといったジャンルだけではなく、SFやNBAですら大きな話題で、キッチンカーやハワイ、サウナ、イスという「誰が聞くんだ(俺だ!)」というようなテーマまでエンターテイメント、あるいはカルチャーといった方面から語り、そして、こういったニッチな回の方が面白いという、30分だって黙って話の聞けない現代人に向けた番組としては、とても非効率的で不経済的な取り組みが負けていってしまうのは当然で、きっとニコニコ動画というプラットフォーム自体から人が去り、集客が厳しくなったというのもあったのだろうが、それは置いておくとしても、しかし、こんなことは始まる前から、いや始まった後でも分かっていたであろうことで、スポンサーしてきたのがメディア企業だから、行っている事業に関係する部分も大きかったとはいえ、ある種メセナ的な意味を持った、あるいは、そういった志を持った活動であったのは間違いのないことだろう。

僕は、金が儲かったこと、より金が儲かるようになったことを、良いこととして話す人や、そのように取り上げるニュースを、はっきりと馬鹿にしているが、それは、効率的に課金を集められるようになったソーシャルゲームと、何が違うのかという問題意識でもあり、「金が儲かる=良い」という等式が成り立たない程度のことが、分からない人々への絶望でもあるが、でも儲かっていれば、なにかしらの形で続けられるという良さがあるのも事実だ。とにかく、すべては終わるんで、終わったものを寂しいと言っていてもしょうがないので、寂しくて辛いなら、サイバーエージェントの藤田社長みたいに、自分が金持ちとか権力者になって、自分が理想とするものを作るか、『東京ポッド許可局』のように、自分が理想とするものを作って、それを別の誰かに認めさせてお金をもらう立場になるか、それしかないわけで、あと、「届ける相手のサイズ感と、オンラインサロン等のマネタイズを考えれば(こういう話し方をする人が、僕は嫌いだ)」、工夫の仕様はあったかもしれないし、生まれたときから生まれると思っていなかったように、あらゆることは常に、気づいたときには切迫した今として、9回2アウト満塁でマウンドに立つしかないんで、まあ、そうやって焦たまま10年20年かかるのかもしれないけど、番組も人も死んでも、理念や理想は、ゾンビのようにしぶといのでね。

ブログ「いらけれ」

ポイントサイターである僕は、お得になる情報を求めて、いろんなまとめサイトを見て回っているんだけど、あるサイトに、少ししかポイントが貯まらない行動について、「でも、チリツモなので、やらないよりは……」みたいな記述があって、言葉ってすごいなって思った。だって、見たことのない字面だけど「塵も積もれば山となる」のことだって一発で分かるし、そして、ポップな方向に進化しているし。
こう考えたことを、ツモリチサトのブランド事業終了のニュースを見て思い出した。

「インドカレーを食べたことがない」という家族とイオンまで行って、インドカレーの店ができてから初めてそこでカレーを食べて(そこそこおいしかった)、なんやかんや話した後に、食料品の買い出しをしていたら、「低温梅干し」というポップがあった。はて、なんだろうとパッケージを見たら、低温としっかり、いや低塩と書いてある。ああ、見間違えたのだともう一度ポップを読めば、やっぱり低温と書いてある。
だいたい、スーパーで売られている梅干しなんていうのは低温なので、低温と書く必要がないことぐらいは、暮らしていれば分かることだから、漢字の形だけ見て間違えたわけで、(梅干しに馴染みのない、非漢字圏の店員さんが作ったのかなあ、大変だろうなあ、ご苦労様です)などと想像していたのだが、でも、よく考えてみれば、外国の人にポップ作りを担当させなそうだしなあ、単に間違えたのだろうか、それにしては前述の通り間違え方がおかしい……などと一人考えている間に、家族はどっか行っていた。

「警察のお世話にだけはならないように」というようなことは、かねがね言われていて、まあ、今んとこは予定ないけど、だけど、分かりやすいから例えとして出すけど、奴隷が認められている時代に、奴隷を解放したら、罪に問われるのはこちらでしょうし、政治犯も、革命が成功すれば、英雄になるでしょう。どうしても、冒頭のマインドみたいなものが、強く頭に残っちゃているわけで、たぶん、目の前で何があっても、法を犯すことはできねーで、あとで後悔しそう。思想。

桜が一本。イオンの先の、ブリヂストンクラブという一般人も入れる社食みたいなところの、あの交差点の角に一本。一本だから、数が多くてきれいですね、とはならない。圧倒もされないし、感動もしない。説得力もない。でも、一本でそこにある方が、僕は好きだな。誰にも頼らず頑張っている気がする。独立している気がする。よせばいいのに、また写真を撮ってしまった。皆に見せようと思って。

ブログ「いらけれ」

洪申豪の『LIGHT CORAL』 が、4月1日に"本当に"再発されていて僕は、発売されたらすぐ買うつもりだったのだが忘れてしまっていて、それを注文したら、間もなくポイントサイトでしたカード発行が認証され、ポイントがついたというお知らせが来て、それで、ずっと前に頼んでいたミックスナッツの発送メールも届いた。人生は、前に進むときは前に進むのだから、そういった偶然が司る人間の暮らしには、あらがっても、歯向かってもしょうがない部分があり、なるべく流れに乗っていく。

「関の山」とか書きたいんです。「申し分ない」とか使いたいんです。僕にとって文章は、とても劇に近い。言葉は、流れのなかに置かれたときに、一つの役割を演じ始める。そこには、個性派の劇団員を放り込みたいと思う。彼ら/彼女らの登場によって、流れが少し淀む。停滞する。うとうとしていた観客が、気になって目を覚ます。ぼんやり見ていた観客に、考えることを強制する。そうして、真に観客となる、みたいな。

少し風が強くて、桜が散ってしまいそうだ。別に、どこかに行かなければならないということはなかったから、大したプランもなく東村山駅方面へ歩き出したのは正解だった。道中の空堀川沿いの桜は満開で、とてもきれいだったし、東村山駅前のロータリーから延びる桜並木も、葉桜になるまでに見ておくことができたから。
東村山駅の方へ行ったのは、イトーヨーカドーがあるからで、使っている安い財布の表面が、ボロボロになってめくれだしたから、買い替えようかなと思ったが、意外と財布を買える場所って少ない。とりあえず、西友やイオン、今日のヨーカドーとか、手近なスーパーを回ってみたものの、ちょうどいい財布はみつからなかったよ。
「痕跡収集家」と書いてしまった手前、痕跡を探さなければとキョロキョロしていたら、すれ違ったお巡りさんから、不審そうな目を向けられてしまった。しかし、そのおかげで収穫があって、ある整骨院の前を通ったら、半透明の入り口の扉の、営業時間のステッカーを訂正するために、新たな時間を手書きした白い紙が貼り付けられていた。しみじみと「そう、こういうの。いいなあ」と思って、その外観の全体を見たら、鯉のぼりが飾ってあるのは時期だけど、ガラス張りの壁面には門松の絵の上に「謹賀新年」という文字の書かれたものや、サンタクロースのイラストが貼ってあった。やっぱり街には面白いスポットがあるのだなと実感した僕は、でも、ここの整骨院はちょっと怖いから、利用することはないだろうと思った。

オリンピックのことも、年号のことも、好きだとか嫌いだとか、内容にかかわらず、大きな話題であるそれについて話すことで、何か一つにつなぎ合わされている感覚があって、ある意味で、とても正しく運用されているのだろうと思う。平成も終わっていく、手にはスマートフォンがあって、いくらでも自由になれるのに僕たちは、とてもつなぎ合わされたいのだ。