ブログ「いらけれ」


植田真梨恵「ダイニング」PV

正当な評価をだれがつけるの
これが愛だと君は言えるの
何になれたらここにいてもいいの

それは、冷静と情熱の間である。あるいは、そんなものはない。アスファルトの上にバナナが落ちている。男は踏み、派手に滑る。それを見て、通りすがりが笑う。不格好な姿の男は、そのまま固まっている。周囲から、徐々に笑いが消えていく。男は死んでいた。笑っていた者は、笑ったことを後悔する。これは実際にあったことではない。これは、私が歩いている間に考えた短編映画の設定だが、撮影される予定はない。世間は10連休だというのに私は、ただただ、先の日曜日のことを思い出している。思い出されている彼は、まだTWICEの『FANCY』のMVを見ていないし、結婚もしていない。つい、そのことを忘れそうになるが、結婚は今もしていないし、『FANCY』については、ここでは書かない。このように覚束ない記憶のように、覚束ない足取りで歩いていた。確かなものというのは、あまりにも少ないから、私は物好きだから、日記を書き続けているものの、普通、人は反応が無ければ挫けるし、人も企業も、金にならなければ終わるのだから、私が確かなものにならなければならないと思った。その第一歩として、好きなものを好きだと言っていくことを決意したのは、私が好きだったネット番組の『ぷらすと』が、一度は終了がアナウンスされていたのに、アクトビラという母船の下で続くというか、死んで復活することが決まって、それには、視聴者の愛が詰まったツイートという後押しもあったということは、基本的には関係ない。そのことが明かされる前に私は、「自分の好きなものについて積極的に発言するアカウントへと変貌を遂げていこう」とツイートしているのが証拠だが、今となっては、この思いを強くしている。「なくなって、ない」で、ゾンビのようにしぶといと書いたしぶとさは希望で、奇跡とはまさにこのように目の前に現れる。言うまでもないことだが、奇跡を可能にするのは、誰かの愛と、誰かの努力だ。この文章はおそらく、ここで終わるべきなのに、文字数が千に足りないから続くというのは、惰性と蛇足の私の人生だ。付け足されるべきでないもので彩られた、考え抜かれていないシナリオの映画を、試写で見た。それなりの予算規模の作品だったけれど、前述の瑕疵だけならまだしも、はっきりと倫理的な問題点を指摘できる物語が繰り広げられていて、日本映画界の未来が心配になる。抽選で当たったそれは、「りきがく」に書かれている映画と、配給会社が同じだった。あまりにもひどい映画が続いたので私は、「この配給会社の株、空売りしてーなー」と思ったが、『CDは株券ではない』ように、映画も株券ではないのだろうから、止めておいた方が賢明だろう。そして、このように書き続けている限り私は、決して図書館に到着しないだろう。

(続)

ブログ「いらけれ」

そうですね、葉書が来ていたので私は、投票に行ってきました。その日のことを思い出しています。

暑かった気がする、なぜなら帽子を被っていたから。黒い帽子は、マスクも付けた僕を、より一層怪しくしている。投票は、かつて通っていた中学校の敷地内に入ることと、あの特殊な紙に文字を書き、そして折ることだけが目的になっている。正直、細かい政策の違いなんて知らないから、僕が投票するべきじゃなかったと思いながら、いつも体育館を出る。僕みたいな馬鹿が、イメージだけで投票してしまうからいけないのだとして、じゃあどうすればいいんだって、候補者の主張を読むなんてつまらないことに、粘り強く付き合うべきだとしても、現実的に無理なのだから。そういうことを考えるために、僕は図書館へ行くのだが、忘れてはならないことは、素晴らしい言説に彩られた出版文化というものがある(あるいは、かつてあった)として、現実がこうである以上、それには何の力もないということだ。はっきりと、敗北している。

それまでに借りていた『ヒーローと正義』という本は面白かった。一から十まで、すべての議論に納得できるわけではなかったものの、古今東西の物語で描かれてきた正義と悪について、興味深い分析がなされていたし、示唆に富む内容だった。例えば、学園ドラマにおけるヒーローとしての先生は、金八先生でもGTOでも、ある種の型破りさを持った、ルールを逸脱している者として描かれる。このことからも、人々は単純に、規範を破っているから悪だと捉えるわけではないということが分かる。そこから、もしかしたら権力者のルール破りですら、誰かにとってはイケてる逸脱に見えているのかもしれないと考えた。現実とは、とかく難しいものである。

あと、この前にも少し書いたけど、『僕たちのインターネット史』も読んだ。インターネット後発参入組だから、普通に知らないことが多くて勉強になるし、インターネットの歴史を語ることから、その当時の雰囲気が分かるあたりも面白い。西海岸的なイデオロギーみたいな話は、それこそお勉強として知っていたけど、より詳細に、そして日本社会におけるインターネットの需要と、それらの思想はどうかかわっていたのか(かかわっていなかったのか)ということについて、理解を深めることができた。普通に、著者二人がわちゃわちゃ思い出を語っている感じもよかった。ただし、やっぱり現代に近づくに連れて、読んでいて気が重くなるというか、暗くなる感じはあって、それは今のインターネットがひどいからって理由によるものだけど、妄想に取り憑かれてしまった人(ネタがベタになってしまった!)が、差別発言を繰り返すようになった今、どういう仕組みを作っていくんですかね?という問いへの答えは、なかなか出ないものだ。

もう一冊、『小説家の饒舌』も借りていたのだが、途中までしか読めなかった。面白くなかったわけではなく、時間切れによるもの。僕は小説家になるので(笑)、参考になるところを拾うつもりで読んでいたが、桐野夏生、阿部和重、古川日出男を逃してしまったのは痛恨の極み。まあ、達成されていないものが多くあればあるほど豊かだし、大事なものに出会えないのが人生かなとも思うので、よしとする。

(続)

ブログ「いらけれ」

とても大事なことが書かれていても、そのことが分かる人は、とても少ない。これは昨日書くつもりだった、『すっぴん!』2019年4月22日の放送で、「今月8日の放送で、カツラを使用する方に対して、配慮の欠ける内容がありました」とお詫びしていた。このことが、一つのギャグのように聞こえてしまうあたり、「カツラ」という物には、未だにチャーミングさがある。

何かを言うことは、今はとても難しい。あの時は「カツラが飛んじゃった先生」というようなエピソードの、リスナーからの投稿を紹介していたと思う。投稿自体の内容と、それを受けてのトークは、とても普通なというか、差し障りのないものだったと記憶している。

僕は太っている。太っているということも、ある種のチャーミングさを孕む瞬間は間違いなくあって、それで得をした場面もあった。しかし、いじめや差別的な扱いを受けることだってあったし、暴言を吐かれることだってあった。僕が太っているのは、ただの怠惰だから仕方がないと思う一方、でも、物心ついたときから太っていたのだから、生まれつきの体質という面もあるのだろうと思う。

髪の毛がなくなる、ハゲるということ。そして、カツラというものに言及すること。抗がん剤治療の副作用には脱毛があって、つまり、生まれつきの体質や大きな病気などによって髪の毛がないので、カツラを使用しているという人がいる(ただし、「そういった人は、あの放送を聞いて傷いたに違いない」だとか、「ショックを受けたはずだ」と決めつけるのも、当然おかしい)。

その他にも、チビとかブスといった、身体的な特徴について侮蔑するような言葉は、未だに使われ続けているが、この先どうなるかは分からない。知能には、実は"天然"という非常に便利な言葉が発明されていて、それはバカより柔らかい表現ではあるものの、そこに問題がないわけではない。

僕が、人前で話すと手足が震えると告白したとき、そうだな、「チキンだ」などと言って笑うことができるかもしれない。僕は、その人に向かって社会不安障害という病気(「極度の「アガリ症」は病気かも……社会不安障害の治療法とは」)を紹介することで、その人を加害者にすることができる。

世界から、誰かを傷つける"可能性のある"言葉や笑い、表現をなくそうという崇高な思想について、論理的に反対することは難しい。それは正しいのかもしれない。正しくっていいね、と僕が単純に言えないのは、僕が文章を書くことで、誰かを傷つけているかもしれないと恐れているからだろうか?

ブログ「いらけれ」

母親を代表とする誰かに赤ん坊のころから、言葉をかけられてきた僕たちの脳の形は、言葉を覚えるように変わっているという感じがあって、物心が付いてからの僕は、どこまでいっても言葉以後の世界を生きている。僕は、言葉を操ることばかり考えてきたのだと、昨日のブログを書きながら思った。だから、ユーチューブで『So!スポLIVE【第1回ゆるふかミーティング】』(NBA井戸端会議感!)見なきゃなあとか、『長嶋有さんブルボン小林さんがゲスト!! #本と雑談ラジオ 85』(長嶋有と本と雑談ラジオ!俺得!)見なきゃなあとか書けない。だって、どちらも見終えてしまっているから。自分が好きなものを、これから見ようと思ってストックしてあるときの、一方ではとてもワクワクしているのに、しかし、ちょっぴり面倒だとも思っているあの感じを書きたかったのに。誠実に文章を書くことで、僕は自縄自縛に陥って、どんどんと書けなくなっている。そのことが面白いし、「ていおん!!!」の本公演があるってメール来ていたなあ、とは書ける。本当のことだから。『熱量と文字数』のイベントを予約したローチケで、「サンキュータツオをお気に入り登録」していたらしかったから。した記憶はないが、おそらく予約のときに、自動的にされたのだろう。むしろグッジョブである。僕は別に、米粒ボーイではないけれど、「ゴエツドウシュウ」というAマッソとの合同ライブにも行こうかと思って、チケット予約の画面に行ったら、手数料を含めて3000円ちょいだったから、一旦寝た。僕にはお金がなくて、それは大して働いていないからだ。行きたいライブに、いつでも行けるぐらいのお金は持っていたいものだ。僕は僕を呪う。起きたら、ローチケの関連サイトにインタビューが掲載されていた(「『ゴエツドウシュウ』米粒写経サンキュータツオ&Aマッソ加納 インタビュー」)。それを読んだら、やっぱり行こうかなって思ったから、たった今予約した。これで一つ、ゴールデンウイークに予定ができた。もちろん、僕の仕事にゴールデンウィークなんてものは、これっぽちも関係ない。

このようにして、おずおずと毎日を差し出し、それが何になるというわけではない。僕は、「僕は好きじゃない小説や映画のことを、名指しで悪く言わないけれど」などと一瞬思ったが、それは嘘だ。僕は批判する。そして、能力や才能の前にまず、自分がそうであるように、書かれたものを批判されるような立場になることを想定して、前に進むのかという、その覚悟が問われているのだ。その覚悟がないから、何をしても、何にもなってないのだ。これを読んでいる君のために、やるだけやってみる。