ブログ「いらけれ」

なんとなくだけど抑うつ状態を抜けられた気がする。自分が元気になっている。何もする気が起きないから何もせず、何もなかった一日に落ち込みながら眠る。そんな毎日だった。今は少しだけ前向きになって、目の前にあるものから手を付けられている。今日は、映画版の『メッセージ』を半分まで見たり、図書館に本を返しに行ったり、部屋の隅に積んであった買ったきり読んでない本をスチールラックに並べるためのブックエンドを買ってきたりした。チャンピオンズリーグの決勝戦はすっかり忘れていたけれど、ユーチューブでダイジェストを見て、うおーすげーと思えたし、歩きながらブージークラクションの曲を聞いて、うおーわたしも怒っているよーと思えた。
心が回復傾向にあるときの私には、ブージーがぴったりくるみたいだ。前回もそうだった気がする。自分の調子の良し悪しをはかること、なるべく自分で機嫌を取ること、悪いときは悪いなりの対策することが大事だって、分かっちゃいるけど難しいのよ。難しいけどやるしかないのよ。

長期間にわたる対策や予防に成功はなく、あるいは、ずっと成功し続けている状態にあると考えられ、ゆえに、私たちに伝えられるのは失敗の報だけである。失敗していない者たちは、私たちが失敗していないのは予防のおかげだと、容易に信じられる状況に置かれているから、失敗した者については、どこかに落ち度があったに違いないと考えるだろう。

ツイッターのアカウントがふたつあるのは、現実社会の私と日記を書く私を分けたからで、でも、それまでの私は中途半端に「後藤」という名前にしていたのは、やはり照れがあったのかもしれないと、思い切って、あるいは気の迷いでフルネーム本名にしたら、日記を書く私にペンネームを付けてあげたくなったのだが、ペンネームを持たない人間のほとんどに、ペンネームを付けた経験がないという問題があり、どうやって付ければいいのか、アカウントを本名にするよりも、ペンネームを付ける方が照れるし、どんな名前を付けても、「へえ、そういうのが良いと思っているんだ」的な視線を投げかける私のなかの私が怖いので、募集します(その名前にするとは言ってない)。

ブログ「いらけれ」

普遍を敷衍しようとする人々の力に、負けないように。

夜に寝て、遅く起きた朝に冷凍チャーハンを温めて、飲み物を取り出そうとした冷蔵庫のドアの、卵の消費期限が今日まで!残り4個!

とりあえず、温まったチャーハンの上でひとつ割り、混ぜ、もう一度レンジに入れて、少しだけ温め直した卵かけチャーハンは、なんかリッチだった。いや、舌が貧乏だった。そりゃ普通に美味しいだろう、冷凍チャーハンにも炒り卵入ってるし。食べている間、沸騰したお湯のなかには卵が3個。火を入れさえすれば、なんとかなるだろうという思想で。試しにひとつ食べたら、半熟より未熟な黄身が口中に広がり、もうひとつ食べてしまう。最後のひとつは、明日の朝にでも食べよう。

昨日のうちから考えていたプランが、大幅な変更を余儀なくされたのは、私が掃除を始めてしまったからだ。新しい敷布団を買ったので、それを搬入する前に掃除機をかけるだけのつもりで、どんどん興が乗った私により、古い携帯電話の古い契約書や、なんとなく並べていたウイスキーの空き瓶、ワイヤレスイヤホンを買うたびに増えるUSBケーブルなど、さまざまなものが捨てられていった。"燃える"と"プラ"のゴミ袋がそれぞれ3袋、"燃えない"が1袋になったからすごい。

断捨離は、本当に気持ちいいから危険だと思う。いるものといらないものを分ける、捨てるという一連のアクションのなかで刺激されるのは、私のなかの一番冷淡な部分な気がする。

若かりし頃に30キロ以上痩せることができたのは「踏み台昇降ダイエット」のおかげで、台にしていた新聞やら雑誌やらを詰めた段ボールも捨てるために開封したら、1面の記事が「裁判員制度開始」でクラっとした。そのころから置いてあったという事実に。

それなのに、また太ってしまった私は、買い物にでかけて、サラダとサラダチキンなどを買う予定だったのに、くもりガラスの向こうは夜の街で、もういいやと思ったから、昼食はゆで卵2個となり、夕食は冷凍パスタとゆで卵となった……って、ええ。

もういいやの力は強かった。残すよりはいい、という言い訳に負けてしまった。まさか今日が卵4個を食べる日になるなんて、昨日の私に教えてあげたいが、ヤツに教えたら掃除しなさそうなので、教えないでおこう。

ブログ「いらけれ」

面会できない私たちの世界。「人間はいずれ死ぬ」を受け入れられているつもりの人でも、他者に死が迫る姿を目にすれば、死の尊大さに驚くだろう。ましてや、この私の死を、この私が受け入れられるわけもないのだろう、と思う。想像と現実には、想像すらできない隔たりがあり、現実にならないかぎりにおいて現実は、非常な暴力性を隠蔽し続ける。

必要なものを運び込み、すぐに病室を出ると、忙しないナースステーションへと一礼して脇を抜けたが、誰もこちらを見てはいなかった。一階に到着したエレベーターから受付の前を通り、出入り口のホールでは、スーツの男たちが、病院に入ろうとする人々の体温を測るものとおぼしき、なにかしらの機械を設置していた。

消毒用アルコールはぬめっとしているのに、一瞬で手から蒸発してしまうから、本当に付けたのかどうかさえ疑わしい。自動ドアの向こうの真っ暗な蒸し暑さで、まだ居座ろうとしている夏の意思が十分に伝わってしまう夜の、一時間。ふと悲しくなり、それでもへたり込むことさえできずに、上を向いて歩く空には星。星と星。

病院からは何度も歩いて帰ったことがあるけど、こんな時間にはなくて、僕は歩く間に、自分の人生を振り返る前に、夜は朝になることを思い、それは明るい未来なのだろうか、それとも、星の明かりさえ届かない白夜のようなものなのだろうか。大きな墓地が通り道で、いつの間にやら、僕は墓地が怖くなくなっていることに気付く。死んだら善人は天国に、悪人は地獄に行くのでもないし、星になるのでもなくて、ただただ、いなくなる。これはとても大切なことで、ただし、やっぱり夜盗は少し怖い(そんなの、本当にいるのか?)。
ちゃんと生きている生き物は夜にも生きているのだ、白い羽根の蝶はよたよたと上下しながら飛んでいた。本物の夜の蝶なんて、初めて見た気がする。お墓を見飽きたころに出口があって、幹線道路沿いの歩道を進むと大きな音がして、道の先の邸宅の敷地内から火の手が上がったようだ、こちら向きに歩いてきた男女二人組が何事かと振り向いたころに、それが打ち上げ花火だと分かる。
人を縦に並べて、二人分ほどの高さがある豪華な門の下に集まった大人と子供が楽しそうにしていた。花火の、あの星のような光は、瞬く間に消えてしまったけれど、通りかかった僕の心には残り続けるだろう。俳句に詠みたい瞬間だな、と思った。

ブログ「いらけれ」

あるのは、分かろうと"しても"分からないことや、伝えようと"しても"伝わらないことばかりなのだ、おそらく。さらに言えば、分かろうとなんて思ってないし、伝えるつもりなんてさらさらないのだ、誰も。大切にしていた宝物が壊れたときみたいだ。ああ、とても悲しい。
誰にとっても自我は檻で、檻を破って飛び出す獣で、それに閉じ込められるか、他人に牙をむくか。意識の「私」は、無意識の〈私〉の支配下にあり、自己犠牲や利他なんて夢のまた夢、〈私〉の利益しか考えていないということを理解しているにもかかわらず、そのことをすっかり忘れたふりをして、とぼけていられるという大変にずる賢い機構。
「私」と「私」が向かい合えば、衝突は避けられない。「私」たちは、〈私〉の皮を被った「私」を認め、「私」から抜け出さなければならない。それは、どうやって?「私」を抜け出したら、何が残るの?
まだ分からない、分かったら苦労しない。とにかく、まずは「私」たちが、目の前にいる「私」とのすれ違いの責任を、目の前の「私」のせいにしないで、目を逸らさずに引き受けることができたときに、やっと一歩目が踏み出せるのだろう。

手に入れてないのに失った!玄関を開けたら夏は壁で、閉める。私は何をなした?何も。それでも不十分とは言えないほどに暖かな記憶があった。冷たい水を口にした。もう十分に歩いた。蝉の声も壁のようで、耳鳴りと区別がつかない。一匹一匹を聞き分けることもできない。あまりのうるささに耳を塞いだら、一人になれたのは何年ぶりだろう、大音量のおかげで静かだ。
夏の夕暮れは、遠くで綺麗ね。誰も、もう見られないなんて知らないで、それは今年の桜も雪も、去年の紅葉も花火もそうだった。あなたのいない明日か、私のいない明日が来るなんて信じられないから、いつかまた感動するつもりで、心に留めないで忘れてしまっただろう。暮らしのなかで遠景は背景だから、とびきり幻想的でも許せるけれど、頭上の空が七色に輝けば、違和感を覚えて、死ぬまで覚えているかも。いや、死んでも覚えているよ、私は。