ブログ「いらけれ」

夏の空の雲は、イカの刺身の色をしている。

今日は、「「これは小説ではない」のなら、それは何なのか?」という『これは小説ではない』(新潮社)の刊行記念として行われた佐々木敦と福永信の対談配信を見たから、それについて考えながら、午後4時を過ぎても暑い8月に僕は立ち向かうことができず、中身が壊れているおもちゃのように、よろよろと歩いていた。

感銘を受けたのは、動画2:05:45あたりからの福永の言葉だ。できれば動画を見てほしいのだが、この日記の読者のために要約すると、「読者にしか興味がない、読者という状況が発生すればそれで良い、ものを読んでいるという状態は1分ぐらいでもすごく良いと思っている」「読んでいる時間その人は一番誠実な状態に、一番良い人になっているのではないか」「読者という状況は、その人が生きていく時間のなかで習得したものを使って、自分と向き合って、自分ではない情報を取り込みながら、自分の感情を作り出していくような、あるいは自分の感情を思い出すような瞬間が、読んでいる間だけ生まれている気がする」といった内容だった。

読むことと、見ることや聞くこと(映画や演劇、ドラマなど)の違いはどこにあるのか、ぱっと思いつくのは、能動性が必要とされる度合いだ。映画や演劇は、出かけて行った劇場の椅子で少し眠ってしまったとしても、その作品を見たことにしてよさそうだ。しかし、眠っている間に読むことはできない。小説を読んでいる最中にウトウトして、そのまま眠ってしまった人は、眠る直前に読んでいた行から読書を再開させることだろう。

見えるものや聞こえるものは、常に向こうからやってくる。それゆえ、見よう/聞こうとしなくてもよく、どこまでいっても見えた/聞こえたの連続であり、見逃した/聞き逃したの連続でもある。対して、読まれるものはこちらにやってこないから、私が読まなければ読まれることはない。読もうとしなければ読めない。読み逃したという状態がありえないのは、読むことと逃すこと/捉えそこなうこと/失することが、まるっきり反対側に位置しているからだ(しかし、現実に「読み逃しているなあ」という感覚が生起する瞬間は少なからず存在する。暇つぶしにネットニュースを読んでいるときとか。読むそばから忘れているというような。ただしそれは読み逃しているのではなく、端的に読んでいるつもりで読んでいない、そもそも読めていないということにすぎない)。

読もうとしなければ読めないというのは、つまり、分かろうとしなければ分からないということだろうか。分かろうとしなければ分からないものが小説である、という説明には納得がいく。しかし、分かろうとしなければ分からないのは、小説だけではないのではないか。他者も、世界も、人生も、善と悪も、愛と勇気も、分かろうとしなければ分からないものだと言えるのではないか。

こうして、私のなかで読むことが誠実さや善良さとつながった。私たちはいつだって、すぐに分かったつもりになるけれど、その先で分かろうとしなければ、分からないことばかりなのだ。考えながら歩き、歩き疲れて家に帰り、飲んだ水の一口目が超美味しかった。

ブログ「いらけれ」

考える前に日が暮れていた。道の真ん中を歩いていた。これしかないと思っている間は、それしかなかった。過去の自分も未来の自分も当てにならないのなら、それでもなにかを変えたいと思うのであれば、今しかないだろう。

夕暮れに考え事をしていた。訂正される記憶について。過去は評価次第なので、あの時の私は幸せだったけれど、それは勘違い、あるいは間違いだったという風に上書きされることなんてざらだ。実際に、ストックホルム症候群のようなあり方で、マインドコントロールの手付きで、精神が支配されていたというパターンもあるだろう。でも、そんな状況でなかったとしても、その幸福な時間が遠くなって、そこにあったはずの実感が失われてしまえば、それが本物だったかどうかなんて、もう誰にも分からなくなってしまうし、目前の幸せに隠されていた苦みや痛みが、認識されていなかった辛さや傷が、あとから発見されることもある。
このようにして過去が、訂正されてしまう未来に開かれ続けている限りにおいて、今の私のこの幸福を、どうやって信じればよいというのだろう、というのが思索の中心点だった。不幸に悩む私にとって、この不幸がいつか不幸でなくなるかもしれないというのは幸福なことだが、それ以上に、いつか私の元に幸福が訪れたとしても、その幸福が幸福でなくなってしまうかもしれないというのは、とても不幸なことだ。

野球を横目にスマートフォンを触っていて、楽天スーパーポイントスクリーンという広告を見たらポイントが貯まるアプリに稲川淳二の顔写真があって、ホラー映画とかもそうだけど、お金を払って怖くなりたいというのは、どういう心の動きなんだろう、と思う。本物ではない作られた恐怖は、むしろ身の安全を確認させてくれるのだろうか。お化け屋敷なんかもその一つで、そこは叫ぶべき場所として存在していて、叫ぶべき場所で叫ぶのはストレス発散になるのだろうと理解できたとして、では、心霊スポットに行くのはなぜだ。心霊スポットで恐怖を感じたとしたら、それは間違いなく"本物"の仕業なわけで、「幽霊なんているわけないじゃん」と言うのであれば、行かなければいいじゃん?
人々はなぜ心霊スポットに行くのか、心霊スポットがあるにもかかわらず、なぜお化け屋敷に行くのか、そもそも、なぜお化け屋敷に行くのか。などなど、これらの人類が考えなければならない問題について、ご意見をお待ちしております。

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夏にきりっとした空気を味わえるのは、この時間帯だけで、実際にはきりっとしていないのかもしれないけれど、冬と比較さえしなければ、マンションとアパートの間を抜けてきた風は十分に心地よく、それは、私の皮膚に感覚があることを意味していた。家の前のゴミ集積場は金網で作られていて、鍵のかかったドアに貼られている紙には、「見てるぞ」という言葉と共に、人間の目の不気味なイラストが描かかれている。誰のものでもないはずの、その目が見ているのは私たちで、そしてその目は、同時に私たちの心のなかにあった。私たちは、私たちを見ていた。

水気のない青いゴミ袋の陰から、一匹のごきぶりが這い出してきて、そのまま道路を横切ろうとしていた。街で出会うごきぶりは、家のなかに現れるごきぶりとは、まるっきり別の虫なのかもしれない、と思う。部屋のごきぶりは大きいし速いのだけれど、道端ではそこまで大きく見えないし、スピードも速いとは感じない。部屋と街の間には壁があるだけなのに、そこにおいて認識される空間のサイズが、大幅に変化しているのだろう……か。それとも、どこへでも行けるのだから、わざわざこちらに向かってはこないだろうという予測で、安心しているだけか。

そうして私は、しっかりと閉めたカーテンの隙間から漏れる朝の光のなかで死ぬ。睡眠は夢に邪魔されることなく続き、私は見慣れたゲームセンターで、大昔のシューティングゲームに興じている。唐突にカメラが引いていき、そのゲームセンターがスーパーマーケットのなかにあるゲームコーナーだということが分かる。身体に服がまとわりつく不快さで、タイマーで切れたエアコンのスイッチを入れる。スマートフォンのアラームに先んじて目覚めたら、早朝が朝になっている。管のなかで温められていた水道水で顔を洗った私は、夏の一日は長いなあ、と思う。これからまた、今日を生きなければならないのか。

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夜。公園。月の光。8月の1週間が過ぎた。やっと夏らしくなった空気をマスク越しに吸い込んで、吐き出して、ようやく声になる。

すっかり暗くなって、この場所には僕たちしかいないのに、予想に反して騒々しい。蝉が鳴き止んだ後に鳴く虫がいること。微風に木立が揺さぶられる音の大きさ。木の影も揺れている。夜のなかの黒にも濃淡があることを、僕たちは同時に発見する。街灯のない向こう側よりも、夜空の方が白くて、そこを飛ぶ鳥の方が黒い。あったことのない人がたくさん生活しているから、マンションの明かりがある。生活音は聞こえない。

聞こえていないかもしれないと思ったから、声が少し大きくなった。僕は、この時の会話を書くことができない。感情だけが流れていた。僕のことを悪く言うのはなぜだろうと考えていた。傷つかないと思っているからだろうか。それとも、嫌われてもいいと考えているからだろうか。むしろ、嫌われたいと思っているのだろうか。それならば、どうしてここに来たのだろう……なにも分からなかったけれど、それで良かった。

嘘ならば、いくらでも本物らしく言えるのに、本当の気持ちを言葉にしたら、嘘みたいだった。だから人間は分かり合えないのだと知った。それはすでに決められていたことで、逆らえない運命だった。分かり合えない不幸は、しかし、分け合うことはできた。「誰と不幸になるか」という問題を前に、僕たちはお互いを選んだ。