ブログ「いらけれ」

精神的な不調です。でもね、好調な日なんてないんだから不調が普通で、異常が日常なんです。

今日は『これやこの サンキュータツオ随筆集』を「幕を上げる背中」まで、『不安の書 【増補版】』を59まで読み進めることができた。良い感じだ。それで『ウィトゲンシュタインの愛人』を購入してしまった。出るより入る方が多いから、未読本の山は大きくなる一方で、でもそれに幸福を感じてもいるから、とても厄介だ。これから読む予定の本だけが、僕を待っている。

あと矢野利裕「生徒を「社会」から切り離すな。オンライン授業が進む中でも忘れてはいけないこと」も読んで、「どもりや対人恐怖とともにあるようなコミュニケーションがありえます」にそうだよなあと思った。オンラインを良いことに(?)きつい言葉を使う人もいて、もちろん、身体的な暴力の脅威がなくなることの恩恵もあるのだけれど、身体が置き去りにされたコミュニケーションしかないのも、それはそれで問題なんだなあと感じているところです。

それと柴崎友香のコラムをまとめて読んで、やっぱめっちゃ良いなあと思った。「違うかもしれない」の"自分以外の人の身体感覚は体験できないから、違いを伝えるのはとても難しいし、そもそも、違うことに気づきさえしない"という箇所は、最近考えている「多様性」という言葉の問題にもつながると思った。ぱっと見で分かる違いにばかり注目してしまうと、違いのなかの違いや、隠れてしまいがちな違いを見落としてしまうから、気をつけなければいけないと常々考えている(そんなこんなで、次に買う本は『百年と一日』に決めた)。

兄のお下がりの自転車に乗って下校していた僕の目が、高い橋の上から川岸の小さな点を捉えた。あそこは"いつもの場所"で、その正体がすぐに分かった僕は、考える前に自転車を停め、気がついたら走り出していた。
スラックスが汚れてしまうのなんてお構いなしに座る後ろ姿は、教室のドアに消えたそれと同じだから、ためらう。でも、ここにいるということの意味を信じるのであれば、口を開くという選択肢しか残っていないように思えた。
僕たちにはこれまでの時間があり、お互いの苦しみを共有してしまった。それが息苦しさの原因で、しかし僕たちには、このように息苦しくなれる友人は他にいなかったのだ。「ごめん」は、後ろ姿の向こうから聞こえた。僕は、小さな笑顔を連れて隣に座った。