ブログ「いらけれ」

今日も人間をやっている、というつもりになっていた。それは、スマートフォンに表示される苦しみに、心にもない優しい言葉を返してしまうような、人間。こうすれば「優しい人」という評価になる。それを分かって、その通りに行動しているだけで、本当に優しい人になれる。優しさのマスクを着ければ、誰もがマスクマンになれる。

いじめたい気持ちと助けたい気持ちが同居しているような、愛と憎しみが共存しているような瞬間はたしかにあって、その形の心を感知したもう一人の私の心が、不思議なほど満たされるのは、『いろんな気持ちが本当の気持ち』(長嶋有の本のタイトル)だからなのだろう。そうそう、今日は『安全な妄想』を読み終えた。多くの人は、その着眼点の鋭さに感嘆するのだろうし、それについては私も同感なのだが、個人的には、文章の湿り気のなさの方が印象に残った。乾いているというのは、けっして冷たいということではなくて、ユーモアに加えてペーソスが感じられるエピソードも含まれているのに、全然ベタッとしていないところがすごいなと思った。

私も、私の文章を乾かしたい。そのためにはまず、私の心を乾かさなければならない。銀行の裏の駐車場の、日の当たらないところに生えた鮮やかな緑の苔と同じぐらい湿っているからな、心。天日干しか?

情に厚いのと湿っぽいのは表裏一体で、長所が短所になり、短所が長所になるというアレだ。一方だけをゲットしようというのは虫がよすぎるのであって、心がさっぱりしている人は素っ気ないからな。やっぱり干すのはやめとこう。

もう蝉が全力です。昼間に野球があって、どうせ負けるなら見なければよかったと思うけれど、それでも見ないと劇的な勝利も見逃すから仕方なくテレビの前にいて、夕飯を腹に入れてから散歩に出かけた。やっぱり涼しくて、とても助かる。蝉の全力具合に、少し励まされるようなところがある。夜に変わる空は美麗で、まるで絵のようだ、という言い回しは面白なと思う。風景画が、ある日の景色を閉じ込めて、遠く離れた部屋に運び込むものだとしたら、景色が先にあって絵があるわけだ。しかし現実の景色は、絵のように常に美しくはないから、曇ったり雨が降ったりする空は、絵のようではない。絵のような空には大きな月が出ていて、「月が綺麗ですね」と思った。

ブログ「いらけれ」

壁のタイムカードを手に取って、レコーダーの"出勤"と書かれたボタンを押す。ディスプレイには「08:36」と表示されている。私が機械に紙を食わせている間も、このビルの一室の外側に、世界はあった。

月曜日の朝に必ず行われる全体ミーティングでは、最近気になっているトピックやハマっているコンテンツを、すべての社員が紹介することになっていて、そのネタ探しをするために早めに出てきた私は、なにも考えずパソコンを立ち上げて、なにも考えずニュースサイトを開いた。

近頃では、自分より年下の人が死んだニュースを見ても、なにも思わなくなった。それは私が、それなりに長い時間を生きた結果、この残酷な世界ではそういうことも起こるのだと、自分を納得させられるようになったからだろう。不平等が当たり前で、完全な平等なんてありえない。

しかし、そのニュースを目にした私の、マウスを動かしていた手は止まり、思考もフリーズした。事故で亡くなった男性の名前の後ろには、二つの丸括弧が置かれていて、それに挟まれた数字は、私と同じ年齢であることを示していた。

人間の内にあるのは、なにも血液や体液、細胞組織ばかりではない。人間は、時間の詰め物だ。私と同じ年の同じ日、同じ時間に生まれた人たちには、私と同じだけの時間が詰まっている。同じだけの時間が詰まっているはずなのに、一人ひとりが大きく分かれていくのが面白いな、と思う。知識や記憶、経験の差によって、ときには、まったく分かり合えない二人が出来上がる。

絶対に交換できないもの、それだけが、私が私であることを保証している。国籍や性別など、同じものをどれだけ持っていたとしても、私が彼ではないと言えるのは、私にしかないものを私が保有しているからだ。ここまで理解していたとしても、あらゆる固有性が切り捨てられたニュースは、共通性だけを浮き彫りにして、同じ三十年がまるっと入れ替わった。

湧き上がる目眩を抑え込むために、親指と人差し指で目元を押した。偶然にも、私には死んでいない身体があり、私の脳も停止していなかった。そして、9時からのミーティングが待っていた。たまたま許された生を、まっとうしなければならない私は記事のタブを閉じて、他者に向けて開いてしまったトンネルも閉じた。