ブログ「いらけれ」

終点の駅のホームから階段を下りて外に出ると広場があって、向かいのビルには大きなモニターが設置されている。画面の端を流れる文字たちは、この列島を襲う酷暑を伝えているがそれは添え物で、この列島に暮らす多くの人から愛されているシンガーソングライターの映像と音楽がメインだ。皆が好きだからって、僕も好きでいる必要はなく、ワイヤレスイヤホンからは、この列島に生きている人のほとんどが知らない、すでに解散してしまったバンドの曲が流れていた。僕が好きなこの曲を、多くの人が好きではない、あるいは嫌っていたとして、だからなんだという気分が充ちる。多くの人が好きなあの曲を、好きになれない僕のための曲があるというだけだ。この世の大部分は「破れ鍋に綴じ蓋」でできているのであって、だから、不透明でゼリー状の不安ばかりを書きつけたこの日記も、それを書いている僕が、それでもまだ生きているという事実が、誰かを救うのかもしれないけれど、そんな不安を感じない人として生きてみたかった。そちらの方が確実に幸福だったのだから、あらゆる不幸のなかから真の意味を見出す人生の解釈学を、絶対に信じないという心構えで生きているとはいえ、過去は過去でもうここにはないし、使えるものは使うというもったいない精神のおかげで今日があって、明日があって、そうやって生きて、はじめて日記が書けるのだった。

基本的に人間というものは、異質な他者の存在を知りたくも認めたくもないのだろうし、自分が間違っていると考えたくも、他人の悩みに身につまされたくもないのだろう、と思う。もちろん、自分にもそういうところはあって、だから、いろんな人が集まって、話し合って、分かり合うなんて無理無理、をスタート地点にするしかない。そもそも、私たちが対話を、誰かにさせられるものではなく、自分でするものだと考えるのであれば、私たちはソクラテスではなく、ソクラテスに無知を悟らされた側の人間になることを引き受けなければならないのに、そうなろうという人は少ない。いや違う、そうか、ソクラテス的な何かが足りないから上手くいかないのか……?ソクラテス的な何かが導入されれば、皆で対話できるようになるのか……?え、ソクラテス的な何かって……なんだ?

ブログ「いらけれ」

色褪せたジーンズを履いて、安物のポロシャツを着た私は、一人を収めるものとしては大きな傘の下にいた。直射日光はアスファルトを熱し続けているから、上を遮っても暑くてたまらないことに変わりはないけれど、それでも十分に快適だ。

言葉はかたまりでやってくる。しかし、ただぼんやり待っていても、私の元には訪れてくれない。待っていても来ないと知らない私は、いつまでも書き始められない。だから私は、言葉を呼んでみる。おーい。

言葉を読んでいる。5冊の本を並行して読んでいる。とりとめもなく。デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』、サンキュータツオ『これやこの サンキュータツオ随筆集』、フェルナンド・ペソア『不安の書 【増補版】』、高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』、テッド・チャン『あなたの人生の物語』。あと、アイドルについて考えるきっかけがあり、書棚にあった『ジャニ研!』も再読中。

一番終わりに近いのが『あなたの人生の物語』で、映画『メッセージ』の原作となった短編も読み終えたのだが、その映画を見ていない私は、これをどうやって映画にしたのだろうと、もちろん面白くない映画ならばいくらでも作れるだろうけれど、これを元に面白い映画を作れるのだろうかと、今から映画を見るのが楽しみだ。

「小説を読むと、心の声がその文体にな」ってしまう私だから、『ウィトゲンシュタインの愛人』で考え事をしているときがあり、内側の声が「~だけれど」などと言うから、小説の混ざった私が形成されつつあることに、私が驚いている。

それで図書館に行ったら、たくさんの本があるにもかかわらず、読みたいと思える本は少ないのが常なのに、たくさんの本を読みたいと思ったから困った。もちろん、読みたいと思った方のたくさんは、図書館の本のたくさんよりもずっと少ないのだけれど。赤瀬川原平と精神科医の大平健による文章術の本を借りた。

私たちには「人並みの幸せ」の後ろ姿がばっちりと見えているから、苦しんでいる。しかし、あらゆる普通の足し算とわり算には、もう死んでしまった人たちの幸福と不幸は入ってないから、私は幸せ者である。こうして、それまで悩んでいたことのすべてが、一瞬で、どうでもよくなった。

ブログ「いらけれ」

感情を走らせて、僕たちはどこまでも行こう。そんな夏は、過ごしてみたかっただけの架空の夏。金鳥の夏、日本の夏。

少し雨が降っていたらしい、窓から見える盛り上がって分厚い雲は、空に浮かぶ城のようだ。蒸し暑くて涼やかな季節性の風が、図書館からの帰り道に吹いて、日焼けた体で遊び続ける小学生の私が、巻き上げられた校庭の砂を吸い込んでしまう。げほげほ。

その角のマンションは灰色のネットに包まれている。工事中だから、絵の男が頭を下げている。頭上2メートルのところに、道を覆うように設置されている鉄の板は、作業員の落とし物を受け止める役割を担うと同時に、強い日差しも遮ってくれている。マンションの向かい側には白いフェンスがあり、雑草と木を取り囲んでいる。それらも、今日に生きている。

アスファルトに形作られた影の、その境目にぽとりと落ちた緑だ。2メートル先の葉のようなもの。ゆっくりと近づいたのは、猛烈な暑さで速く歩けなかったからだし、そこを通らなければ家に帰れなかったからだ。それは蟷螂で、両の鎌を振り上げながら彫刻のように固まっていた。私が真上から顔を接近させても微動だにしないから、私のことを認識しているのかどうかすら分からない。

通り過ぎた後も、あの蟷螂のことを私が考えてしまったのは、そこに他人を見たからだ。なにを考えているか分からない他人は、あの蟷螂と同じだと思う。独自の理屈、オリジナルなプログラムで動いている他人は、あの蟷螂のように不可解で、いちいちその意図を推察していたら消耗してしまう存在である。おそらく、これからはそんな他人を「あ、蟷螂だ」と思うようになるのだろう。

ブログ「いらけれ」

頭痛で臥せっていた。その痛みは耐え難く悪心を伴うもので、実際に吐いたごみ箱のなかを見つめ、夕食から5時間も経っているのにな、と思った。一向に涼しくならない夜に、しかし、冷房を切っても悪寒は続き、止まらない冷や汗でTシャツがぐっしょりと濡れた。

自律神経の失調。ストレス。それを思考することがストレスになっているのは明確なのに、考えずにはいられない。世界に考えさせられているとき、私の脳は私の支配下にない。

自分の痛みや苦しみは大きく、他人のそれは小さく見えるのだな、と思う。苦痛に苛まれている私は、人生は地獄だと思い詰めるだろう。そして、苦痛の訴えを前にした私は、理解や共感の素振りを示すだろうが、どこまで行っても自分のものではない苦痛を、我が事のように深刻に捉えはしないだろう。私たちは、本当は身につまされたくなんてないのだから。

「分かろうとしなければ分からない」の反対側には、「伝えようとしなければ伝わらない」があった。ときには黙することも必要だけれど、黙っていては変わらない現実もある。苦しみの表明を蔑ろにされ、余計に傷ついたとしても、そうすることでしか知り得なかった感情を、その先で語ろうと腹を決めた私は、ようやく眠りにつくことができた。