ブログ「いらけれ」

目が覚めたから目が覚めた。「私は私だ」という言葉は、単に私が私であることを確認しているわけではなくて、わざわざ言うことに意味があるというか、そう発話することが意味を生み出すというのは、いわゆる「コンスタティブ/パフォーマティブ」って奴で、全然新しい発見じゃないじゃん。

家に姪っ子と甥っ子が来ていて、オカリナを吹きながら仲良くしていた。もう夏休みは始まっているらしく、この期間に上手くなるつもりだそうだ(ちなみに、昨日買ってもらったばかりなのだとか)。輝きの足りない「きらきら星」の、「よちよち星」とでも表現したくなる拙さが、なんとも愛おしいのだった。

まだ言葉にできない事柄は、ずっと考え続けることだけが許されていた。そして、深く考えることが苦しみにつながるとしても許せた。私は、独りきりで考えるのが得意で、しかし行き過ぎている。あらゆる言葉に先回りできてしまう退屈も苦痛だ。だからこそ、これまで思いつかなかったような真実、その断片の煌めきにお目にかかりたくて、知らない世界に分け入っているのだろう。「あなたの言葉が、私に届いたその時に、すべてを理解しました」。そのような瞬間が、本当に私に訪れるのだろうか、という疑いは拭えないとしても。

「難しいことを考えているうちに分からなくなって、簡単なことを間違える」というのは、なにも観念的な話ではなくて、将棋を指しているときに感じたことだ。先の先を考えた結果、うっかりタダで飛車を取られたりする。だからといって、先のことを考えないようにすると、単純に勝てない。つまり、難しいことを考えながら、簡単なことを間違えないのが大切なのだ。結局は観念的な話になる。

スマートフォンをアップデートしたら、ダークモードというのが使えるようになったので設定したら、それまで白かった様々なアプリの背景が黒くなった。目に優しいのか、省電力につながるのか、よく分からないけれどとにかく、受ける印象は大きく変わって、ツイッターを開くと気分が沈むようになった。ああ、今年の夏はダークモードの夏だ。