ブログ「いらけれ」

放っておくと無限に汚くなり続けるものといえば、そう、部屋。とくに、僕みたいな馬鹿が時間をつぶしている。ブレンの赤がないから、ノートに文字を書けない。部屋のなかで物をなくす人は信頼できないと思う。探すためには、床が見えるようにしなければ。そう思って、散乱しているゴミを片付ける。ゴミとは、僕のことではない。具体的には、楽天ブックスから送られて来る、ビニールのプチプチが内側についたあの袋だ。手に持ったら、線の細い蜘蛛が慌てて逃げ出したから、上に乗っていたことに気がついた。裏返したら、同じ種類の蜘蛛がもう一匹、同じように慌てていた。繁殖しているということは、産卵しているということだろうか。

その人に固有の苦しみを、僕は地獄と呼んでいる。フェルナンド・ペソア『不安の書【増補版】』(彩流社)の22ページには、「われわれに起きたことは、誰にでも起きたことか、われわれにしか起きなかったことだ」とある。これをノートに付けたのが昨日の夜だ。つまり、僕たちの手元にあるのは、ありふれたことか理解されないことだけなのだ。どれだけ恵まれていようとも、あるいは、どれだけ恵まれているように見えようとも、その内側には必ず、認識不可能な痛みがあるのだと思いながら生きていこう。それは、すべての人間に必要な優しさだから。

今月だけでも、高橋ヨシキ『高橋ヨシキのサタニック人生相談』(スモール出版)サンキュータツオ『これやこの サンキュータツオ随筆集』(KADOKAWA)佐々木敦『これは小説ではない』(新潮社)を買ってしまった。『不安の書』は600ページ以上あるというのに、誰が読むのだろうという顔で背表紙が見ている。そんな気がして、どうにも落ち着かない。なのに、デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(国書刊行会)が欲しくてたまらない(分かる人には分かるつながり)。「本を読むのが好きなんじゃなくて、本を買うのが好きなのね」。本当に、僕は僕のことをよく分かっているなあ。本も読まずにぼーっとしながら、そんなことを考えていた。

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ルールが変わって僕は、そんなこと同意してないよって思った。最低の日々が想定を下回り、壁に貼っていたポスターが剥がれるミシミシという音で目が覚めた真夜中。すべての記憶が断片的で、どうやっても統合できない。だから僕の心は、笑いながら殴られていたのかもしれない。他人に期待してはいけない。このことは、胸に刻んでおかなければならない。いつだって裏切らないのは自分だけ。厚かましい人が勝利する世界にうんざりしている。毎日他人に気をつかっている、そんな気がする。結局、気をつかわせるだけつかわせて、気をつかわない生き方が最良なのだ。こちらを置き去りにして、スイスイと泳いでいく姿を、「ああ人間だな」と思いながら見つめていた。

これは詩ですから、ここに本当はありません。でも、「明日から毎日更新しますよ」という言葉は本当にしたいです。本当にそう思っています、と念を押すように言うと、まるで思っていないみたいだから困ります。僕が再生できたわけを、明日からの僕が少しずつ書いていくことでしょう。この人生の意味が、徐々に分かり始めているところです。やりたいことは他にもたくさんありまして、このサイトのリニューアルなんかも考えています。なにはともあれ、まずは、あらゆる不幸とわずかばかりの幸福を詰めた文章を、この地獄の詳細な記録とこの地獄をそっくりそのまま伝えるための物語を、僕は書いていこうと思います。そのために置いていかなければならないものがあって、この詩は書かれました。

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「今一番欲しい本はフェルナンド・ペソア『不安の書 【増補版】』なのだが、もうすぐ無職になる男が五千円を超える本を買っていいものなのか…悩む。」というツイートをしたのは、検査結果の待ち時間だった。その巨大な総合病院は、受付と精算の場所が分かれているのだが、僕は独りになって、精算カウンターの前の、広いロビーの一番端っこに座っていた。

採血をした後、結果が出るまでに1時間はかかると言うから、僕は同行せず、時間を合わせて行ったのに、診察開始は遅れに遅れ、もう1時間は待たされていた。診察室の近くの待機場所には、大勢の人が黙って腰掛けていて、ベラベラ喋るわけにもいかないので気まずいから、「少し散歩してくる」とその場を離れて、病院の周りをほっつき歩いたけれど何もなく、仕方なく戻ってきたけれど居場所もない。精算カウンターの上に設置されているモニターが、新しい数字を表示する度に、市役所みたいだなと思う。互いに間隔を開けた人々は、自分の番を待っている。生まれるのは順番ではないのに、死には順番がある。

僕がここに座るのは、実は、この時が初めてではなかった。前に一度来たとき(それが、初めて僕も呼ばれた日だ)は、診察の後、入院の手続きをしなければならないというから、やることのない僕だけが帰ることになったものの、高ぶった神経を鎮めなければならないと思ったから、一息つくために壁際の自販機でコーヒーを買って、前の椅子に腰を下ろしたのだった。

それはペットボトルや缶の自販機ではなく、カップ式の自販機だった。オリジナルだとかアメリカンだとか、カフェラテやココアもある。前の二つは100円で、後ろの二つは150円だ。ミルクの入ったコーヒーが好きだから、カフェラテを買ってもいいのだけれど、オリジナルには「砂糖・ミルク入り」というボタンがあって、貧乏性の僕は、どうしてもそれを押してしまう。再び砂糖とミルクの入ったオリジナルコーヒーを買ってしまったことに、少し後悔しながら僕は、「カフェラテは50円分美味しいのだろうか……」と、その味を想像していた。

そこでお金について考えたことが冒頭のツイートにつながったのだと、こうして振り返ったから気づいた。現実には、愛や命の前に金があって、保険の使えない薬は痺れるぐらいに高い。世帯主に給付された10万円は、「生活費にしてくれ」と言って受け取らなかった。しかし、文章というものは、すべてが虚構だから、これは現実ではない。

ブログ「いらけれ」

今時の大学生らしく、一年生の頃から、履修した講義には毎回出席し、レポートなどの課題もしっかり提出するという真面目さで、四年生後期になってからは、キャンパスに行くのは週一日、ゼミの先生の卒論指導を受けるだけだから、高いお金を出して買った自転車はすっかり使う機会が減ってしまって、錆びつかせるのがもったいないと思った僕は、朝から降っていた雨が上がったタイミングで、いつものスニーカーを履いて、玄関を開けて、目に入る空に虹がかかっている。しかも二重だ、よく見ると。

兄が仕事をやめたのは、先月のことだった。彼の身体に、三月の終わり頃から断続的に訪れるようになった小さな不調は、一月で瞬く間に大きくなって、それでもなんとか会社に通っていたのだが、ようやく診察を受けたときには、もう手遅れだった。詳しい検査のあと、家族も呼ぶように言われた診察室で、ドラマのように余命宣告が行われることはなかったけれど、医師の口振りから、彼の人生がそう長く続かないことだけは、はっきりと伝わった。彼の後ろで、円形の椅子に座って話を聞きながら僕は、天井を見つめていた。その向こうに、本当に、神様はいるのだろうか?

後方から不意の、けたたましいクラクションの音にも、僕は振り返らなかった。まだ乾ききっていない道を、自転車は快調に進む。地面とタイヤが接しているのが分かる。この感覚は久々だ。小さな公園、シャッターの隣のシャッター、スーパーマーケットから人が出てきて、美容室には大きな女性の写真。赤信号で停まる。あまりにも綺麗な虹は、それが最後の虹かもしれない。僕は振り返り、わざわざ靴を脱いで、リビングのソファに横たわりながら、テレビを見ている兄の側まで行って、そして、話してしまった。

フォローのつもりで「歩きたくないよね」と言うぐらいなら、話さなければよかったと、その時は思った。彼の苦しみが、痛みが、僕には分からない。「そうか、見たいな」と言って起き上がろうとした兄を母が支えて、短い廊下を歩いて、玄関でサンダルをつっかけて、ドアを開けた二つの後ろ姿の向こうに、あの虹はまだあった。「本当に綺麗だね」という、たわい無い会話に家族があって、胸がいっぱいになる。うん、話してよかった。「出かけてくるわ」とそっけなく横を通って、自転車の鍵を回しながら僕は、この日のことを死ぬまで忘れないだろうと思った。

信号は青に変わった。顔を上げ、しっかりと前を向いて、もう一度ペダルを踏み出した。

僕は魂の本に今日のみんなを記すんだ。

「魂の本」中村一義