ブログ「いらけれ」

どこかに隠れているはずのそれなりの暮らしが、物陰から僕を呼んでいるけれど見つけられない。

運命には逆らわないと決めているので、玄関を出たときから降り続いていた雨が、夕方前に突然激しくなったとしても驚きはしなかった。雨宿りの人々で、屋根のあるスーパーマーケットの出入り口はごった返していた。その密をすり抜けて、中途半端な傘ぽんのビニールを上げながらエスカレーターに乗って、靴売り場と100円ショップをぶらぶらして、よきところで冷房がガンガンにきいた店を出たら、むっとした湿度が足元から上がってきてメガネが曇った。今日味わったこの印象的な蒸し暑さを、僕はいつまで覚えていられるのだろうか。

虫取り網でばらばらになった蜻蛉を見たところで何も思わない。知らん家の門扉の向こうでは、とても描写できないような体勢の猫が毛繕いをしている。描写の難しさは、描写を試みたことのある者にしか分からない。僕たちは独り言で、それを良いと言うのならば良いのか。それは良い。いや、良くない。良さについての言及――それは価値観の表明だ――は、それを持たないものを否定しているわけではない。しかし、たしかに何かを良いと言う価値判断それ自体の内側には、その良さを持たないものについての肯定的な言説や態度表明も含まれていない。僕たちの世界からは、それを良いと言うことさえも失われつつあるのかもしれない。だから僕は、言いかけた良いを口のなかで転がして、ぐっと飲み込んだ。

最近はどうも力を入れて書けなくなっていていかんなーと思っているところ。でも、面倒くさいんだもん。今は「なぜ人間は世界の不確かさに耐えられないのか」についてずっと考えていて、参考になりそうな本も読んでいるんだけど、考えたことを文章にする気力がない。頭を使うのは疲れるし、なかなか上手く言葉にできないあのじれったい時間のことを思うと、この記事の入力フォームが開きたくなくなる。そんなことよりペソアの『不安の書【増補版】』の68、69ページを読んでほしい。僕は、そこに自分がいて仰天した。「おそらく、わたしには人に伝わる冷ややかさがあり、そのため無意識のうちに他の人にわたし流の感情欠如が反映するのだ」なんて。ああ、本当に「生きることは苦痛だ」。苦痛でたまらない!