ブログ「いらけれ」

部分的な狂気は狂気ではないのだから、狂気を全面化しなければならない。

死んだみたいな顔をしながらブチ切れていた僕は、つまり、高邁な理想を語る言葉の内実が空虚だと知って、その口に盾突きたくなったのかもしれなかった。下らない現実の再上演に付き合っている暇はないのだ。歩く速度が上がる。すべてを振り切ろうとするスピード、足を動かしていたのは爆発的な怒りだった。

そこに、いないみたいにいたかった。朝から断続的に降っていた雨が止んだのを見て、一応、傘の杖をつきながら病む街に出た。前方の上空の雲に、うっすらと青が乗っている。雲はつながっていて横に長くぎざぎざで、自由な山並みのような形をしていた。新しい始まりを感じた。神聖さ。スピリチュアル。目覚め。

運命の周りを偶然が回っている。その様子を、リードにつながれた犬が鼻で追っていた。季節は夏で、鳴き声は蝉だった。墓地の真ん中で泣いたり笑ったり、泣いたり泣いたりしていた僕は、「雨やんだから散歩。涼しい。」とツイートした。

そこから二、三歩で小雨が降り始め、一分後には立派な雨に成長した。だからといって僕は、自分があんなツイートをしてしまったから雨が降ってきた、なんて考えない。それでは、自分が球場に見に行ったら、応援しているチームが負けてしまうと考える野球ファンではないか。一人の人間の存在は、この世界に微々たる影響しか与えないけれど、僕たちは主観を通してしか世界と触れ合えないから、自分の行動や振る舞いによって現実が変わると、たやすく信じてしまう。そうでなければ、合格祈願にお参りなどしないだろう。

それに僕は、この僕の内心が天気になって現れた、なんて考えたりもしない。柴崎友香の言葉を思い出そう(「必要な時間 2」)。天気が心の影響を受けるわけがない、晴れや雨といった天気に心が影響を受けるのだ。

川かな?

小さな坂の上から流れ落ちてくる大量の水で、サンダルのなかまでぐっしょりと濡れる。その水には、波紋のような模様が規則性をもって現れていた。それほどの土砂降りで、視界は白くなる。意のままにならない世界のままならなさで、本当に目が覚める。不随意こそが"自然"なのだと。だから、人生はこれでいいのだと。