ブログ「いらけれ」

9月頃から頑張ることにしたので、今は人生の休憩中です。頑張っても頑張らなくても人は死ぬぜ。そういえば「頑張ったって死ぬ」という歌詞のスキットがマキタスポーツ『推定無罪』に入ってましたね。あはは。

そうそう、人間が大切にしなければならないのは、「あはは」とか「えへへ」なんじゃないかと思うようになったんです。だって世界には、真正面から受け止めたら潰れてしまう大きさの出来事しかないでしょう!だから僕は、どれだけ舐められても笑って許すことに決めたのだ。それは優しさとかじゃなくて、ありったけの怒りを込めた、刃物で刺すような笑顔だ。

あるときから兄は、二人でいることをやめた。もちろん、三人以上でいることもやめた。二階から下りることもやめたし、カーテンを開けることもやめた。そして、あの小説を書き始めた。
小説を書く兄は、一人でいることもやめてしまったようだった。話すことをやめた彼は肉体を捨て、すでに書かれた文字を読み、同じことを同じように書いた。彼の書く言葉のすべてが、すでに誰かの書いた言葉だった。
自分を手放した兄は、姿かたちはそのままぼやけた。三歳の自分と、十七歳の自分と、今の自分と百歳の自分の連結を外してしまった人間は、霧のようになるのだと私は知った。そのときから私は、一人でいることに決めた。一人でいるために、私は小説を書き始めた。

6月の僕は、主にテキサスホールデムの動画を見ていた。少しずつ用語を覚えている。リンプインとかドンクベットとか。面白い。不完全情報ゲームにおけるセオリーや思考法は日常生活に使えそうだなって思うけれど、思うだけで使えていないから、こんな暮らしが続いている。
少し前の僕は競艇で、人狼で、麻雀や将棋はずっとあって、MCバトル(ダンジョン終了……残念)やプロレスにハマっている時期もあって、野球が始まって、興味を持つのは良いことだなーと思う。視野を広げて、世界を捉えろ。ポーカーを知った僕は、ポーカーを考えるように、別の何かを考えられるようになっている。野球やプロレスを見るように、人間を見るようになっている。そんな感じがしている。

最近、文章を書くときはSoccer Mommy『Color Theory』を聞いてます。アンニュイがちょうど良いので。ちょっと前(つって、ひと月以上前だけど)の日記の「bloodstream」というタイトルは、このアルバムの一曲目からいただきました。みんなも聞いて、なんか書いたら良いんじゃないかな。では、また来月。

ブログ「いらけれ」

現代日本社会に生きる人々は言葉を略すのが大好きなのに、ソーシャルディスタンスは一向に短くならないなって思っていたんだけど、家から出た一歩目で、「ああそうか、密があるからか」と閃く。

もう心のことで悩んだり苦しんだりしたくないと思いながら下を向いて歩いていると、砂利道には石のような材質で作られたマンホールのような何かが目に入り、この下には何があるのだろうと考えながら上を向くと、遠くにあるごみ処理施設の塔が見え、僕は今、テッド・チャン『あなたの人生の物語』を読んでいるから、「バビロンの塔って、あんな感じかな」と思う。

散歩の舞台は大きな霊園で、19時を過ぎたにもかかわらず明るい空の下には、しかし、ほとんど他者はおらず、自分ひとりの世界が出来ている。そこで考え事をしているのは、あの巨躯のカラスと僕だけで、そこで本当に生きているのは、あの一際背の高い木だけといった感じだ。生きてもいないのに、死んだらどうなるんだろうね。とりあえず墓に入ったりするのだろう。人間たちの墓は大きさがまちまちで、立派なものもあれば、みすぼらしいものもあって、「結局、死んでも資本主義なんだな」と悲しくなる。

紫陽花だけが綺麗な6月も、もうすぐ終わりだ。川沿いの団地の、ごみ捨て場の裏の1畳ほどのスペースに咲く、雑に植えられたとしか思えない紫陽花でさえ綺麗だ。捨てられているみたいな紫陽花でも綺麗なのは、花の量によるものだと思う。とにかくたくさん咲く。その物量に、人間たちは圧倒されてきたのだろうと、桜を見ても同じことを思う。そんなことを話した中学の同級生が、3年前に死んでしまったことを思い出したそのとき、僕は立ち上がれなくなる。

バス停の前のベンチに座って、平熱に戻るのを待っていた間、バスは一本も来なかった。日記はフィギュアで、小説はプラモデルだった。文章によって、ある過去の一点を冷凍保存し、書き表されたその場面に読者を立ち会わせるのが日記だとしたら、不完全な記述の積み重ねによって、本来はある出来事を経験しなければ得られないはずの感覚を読者に、読者のなかに組み立てさせるのが小説だった。そんなことが分かっても、何を書けば良いのか分からなかった。だから、日記とも小説ともつかない文章を、こうして書いている。

ささいな勇気が新しい地平を開いてしまったから、このように記録でも作り事でもない文章が、この先も書かれていくだろう。それで良かったのだと自分を納得させた頃には、辺りはすっかり暗くなっている。

ブログ「いらけれ」

5月という怪物をやり過ごした僕が、ほっと一息ついた6月に、まさかこんなことになるなんて、ラスボスを倒したと思ったら、さらに強い真のラスボスが出てきたみたいな、まだうまく書けないけれど、そんな感じだ。映画のような日々に放り込まれて、仕方なく真面目な顔をしている自分が滑稽でたまらない。とはいえ、答え合わせまでは少し時間があるようだから、僕は最善を探しながら暮らしている。すべてが終わったら、僕はなにを、どう書くのだろう?

それでも私は、笑顔で生活しています。あのときの私と、同一人物とは思えないぐらいに、不思議と元気なんだぜ。「マジで死んじゃうんじゃないかなー」という出来事を越えて、ちょっぴり強くなれたのかしら。たぶんこうやって、実生活では全然傷つかなくなって、でも、安直なフィクションですぐに泣いてしまうのが、大人になるということなのでしょうね。それはきっと、世界の実相のしょっぱさを知って、願いや望みを持たなくなる、ということでもあるのでしょうね。普段は諦めてるから大丈夫なんだけど、捨ててしまった理想をそこに見るから、映画のワンシーンで涙したり。

麻雀と野球が始まったから、僕も生きている気がしてきて、ベッドに横たわりながら、人と人が出会うことの意味を考えていた。いずれ会わなくなってしまうなら、初めから出会わなければよかったのか。受け入れられないことが多すぎて、心がじくじくしていた。
部屋を出たところに、花瓶に色とりどりの花が挿してあって、なんだか複雑な気分で、まるで幸福みたいだと思う。リビングに置きっぱなしのバナナに、黒い斑点が出始めている。それを切って、食パンに乗せて、シナモンとハチミツをかけて、バナナトーストにする。おいしかったけれど、料理はもっとできるようにならないと。
劇的な変化に立ち会える夕方の空気感が好きだ。サンダル越しの風が涼しい。でも、この黒いゴムに無数の穴が空いているみたいなサンダルは、砂利道の小石が侵入してきて、そして出せないから、新しい靴を買おう。いつもの道は、集まってスケートボードに乗っているから、別ルートを歩こう。この数日で、お墓の見え方も変わってしまった。お墓はひとつも変わっていないのに。お墓の向こうの空がとても綺麗だ。青が深くなった空の、高いところにある薄い雲に夕日が当たって、オレンジ色が混じっている。低いところにある雲は分厚く、夏の形をしている。僕は思い出について考えてみる。この日のことを覚えていたとしても、この空の色や雲の形を、その通りに記憶している、というわけではない。記憶が思い出になるためには、こういう抽象性が必要なのかもしれない。
その空は小学生のころの、手当り次第パレットの上に出した絵の具で、それを大きくて白い紙に、適当に塗ったときの美しさで、誰かに絵を描かされる前の僕が、絵を描くことが好きだったのは、ただ混じる色と色に感動すればよかったからだ。神様の絵の具遊びで、そんな思い出が蘇った。

ブログ「いらけれ」

高いビルが今日の、地球に近い太陽を遮ったとき、その影はずっと向こうの方まで伸びていって、誰も座っていないベンチを覆った。ベンチの前には大きな川があって、柵の向こうの両岸では、雑草たちが絡み合っている。

川と私の間の小道を、年に不相応な格好をした男がスケートで行ったり来たりするがらがらという音が、断続的に聞こえていた。目を落としたノートの上で滑らせたボールペンのインクは出なかった。上端で渦巻を一つ描いたあと、彼女に話したいことを箇条書きにした。あと何遍、私たちは会話をするのだろう。あと何遍、私は彼女と会話ができるのだろう。人生はあまりにも長く、そして、あまりにも短いから、手に負えない感情と共に、私はその場を離れた。

記憶のなかで私は幼子だった。街道沿いのファミリーレストランで、買い与えられたミニカーを熱心に動かしていた。手前に置かれたパフェのアイスクリームが冷たかった。それを横目に、彼らは言葉を交わし続けていた。私には、大勢の人が泣いていた昨日の集まりと、その会話の関係が分からなかった。ぐずって押し込められた別室の、座布団の臙脂色を思い出していた。季節は夏だった。いや、季節は夏になった。そうだ、私にとっての夏は、ある日を境に"なる"ものだった。

その暑さに見合った大きさで、一歩退いた私の目前を、ゆったりと通り過ぎた蝶は、誰かの庭の、誰かが植えた花に止まった。見惚れていたら、このまま日は暮れないような気がした。右腕に水滴が落ちてきたので、見上げた空は晴れていた。ほれぼれするほどの天気雨だった。黒い雲は頭上の遥か向こうにあって、この心地よい風が、細かな雨をここまで運んできたらしかった。なぜか分からないが、少しだけ嬉しくなった。

坂を上りきって振り返ると、色とりどりの屋根があり、平面だった街が立体的になった。そこから見える狭い道で、対向車とすれ違うために一旦バックした黒い車に、指を重ねてみる。家の中を探せば、あの日のミニカーが見つかるだろうか。

通りの向こう側で、ランドセルを背負った女の子が手を振っている。散歩の終わりに、その後ろ姿を見た。彼女が立っていたのは、サインポールが置いてある古めかしい美容院の、大きな窓の前だ。友だちでもいるのだろうかと思いながら、私が歩いたことで、彼女に隠れていた内側が見えた。そこには犬がいて、ガラスに寄りかかりながら、嬉しそうに尻尾を振り返していた。

今日の私のように、彼女もいつか、この日のことを思い出すのだろう。そう感じさせるシーンだった。