ブログ「いらけれ」

本当のことを打ち明けると僕は後藤ではないし、宇宙飛行士でも地底人でもないのだから、どうでもいいはずのことなのだけれど、後藤が出てくると穏やかではいられなくなるので、とても困っている。たとえば、YouTubeチャンネル「哲学の劇場」で、友だちがいないことが悩みだという後藤さんからの相談が取り上げられていた回は、自分と重なりすぎて辛くなって、途中で視聴をやめてしまって、あれから一ヶ月、いまだ見られずにいる。ウェブマガジン「あき地」で連載されているナツノカモ「着物を脱いだ渡り鳥」にゴトーが出てきた際にも、そのことが気になってしまって、2回読まないと内容が頭に入らなかった。
スポーツ選手やら芸能人やら、名字が同じだというだけで親近感を抱いたり、少し応援したりしてしまうのだから人間は馬鹿だ。阿呆だ。しかし、そうした愚かしさ、つまり、自他の取り違えやすさや境界の融解しやすさの先に、究極の間違いとしての愛があるのではないだろうか。
そんなことはどうでもいいのであって、すでにこれは日記ではなくなっているにもかかわらず、日記だと書き、そして言ってしまうから、書けないことが多すぎる問題についてどうにかしたい。ここ最近の僕の毎日はカルピスの原液みたいなもので、薄めなければ飲み込めないような、少しいがいがするような濃さがあって、でも、誰が読んでいるか分からないという警戒心で、そのまま書くと角が立つような話を、なんとか別の形に変換しながら文章にしているのだけれど、それもそろそろ限界だ。あの悲しみや怒り、戸惑いについては、小説にするしかないのかもしれない。小説としてであれば書けそうな予感もある。人生は映画だから、不出来な脚本を僕が上手にノベライズしてあげよう。

この街のどん詰まりにはスーパーマーケットがあって、自動ドアの向こうにたくさんのペットボトルが並んでいて、全部違うのにどれも同じだった。適度な運動と太陽光、一日分の栄養素と望ましい生活サイクルだけの暮らしに、僕たちは満足できない。静かな部屋でじっとしていられない。不要な添加物は、不要だからこそ必要なのだ。不要なもののおかげで満たされているお前にとって、突き詰めれば他者も愛も、自分さえも不要だからこそ、あったらありがたいと思え。