汚さについて

コラム「後藤の超批評」

『菊地成孔の粋な夜電波』第340回を聴いた(radikoのタイムフリーを使えば、まだ聞ける人もいるだろう)から、汚さについて話したい。

人間の汚さ。それは、せっかくプロレスを見るなら、危ない、エグい、”説得力”のある技が見たいと思いながら、しかし、人が怪我をするところは見たくない、というような。

誰も怪我をしないプロレスは、限りなく演舞に近いものだろうし、それは誰も求めていないのではないか。つまり、怪我をしかねないことを見る者は望んでいるのではないか、「怪我をしかねない技を繰り出すが、実際怪我をしたら引く」というのは、あまりに我が儘ではないか。

しかし、もちろん、だからといって、「プロレスラーが怪我をしてもいい」などとは思っていないというエクスキューズは、インターネットの世界のレベルに合わせて入れておこう。

いや、そういう汚いではなく、もっと直截に汚いということ、つまり、不潔で、ダーティーで、ということ。

なぜ、汚い言葉を使いたくなるのか。なぜ、ヒップホップという音楽に使われる汚い言葉を聞いた人間は、まるで自分が「ワル」にでもなったかのように、少しだけ気が大きくなるのか。中学生がFワードを言いたがるのはなぜか。

汚い言葉に詩情が宿る。汚い言葉を駆使するピカロへの憧憬。

汚さを必要以上に持ち上げているわけではないし、だからといって「クリーンな世界」を希求しているわけでもない。汚い言葉ならいくらでも、インターネット上に溢れているが、しかしそれは、ただ汚いだけだ。そして、各々が思う「クリーンな世界」を望む態度からなされる”浄化”は、必然的に汚いもの(悪)を定義し、浄化をしたい奴らが、浄化のためにこそ、その汚さの力を利用しようとする。つまり、暴言や罵詈雑言、ヘイトは、その性質上、「クリーンな世界」を求めることと一緒に生まれる一卵性双生児なのだ。

インターネットに、適度な退廃と不潔を。

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Posted by 後藤