『未来のミライ』と「意識と無意識」

コラム「後藤の超批評」, 映画

これをいつも読んでいるあなた、もしくはこれに偶然出会い、これから読むあなたが感じている/感じるかもしれない感覚について、つまり文章を読むことによって引き起こされる感情について、書き手として、それまでよりずっと意識的に考えるようになった。その感覚とは、巷間「退屈」と呼ばれているものだ。きっかけは、映画を見て「退屈」を感じてしまったから。その謎について、考えている。




私が見た『未来のミライ』の、その最初のシーン、街を俯瞰するシーン(物語にあまり活きているようには思えなかった。現代で、あの変わった形の家から外に出るのは公園と保育園くらいで、彼らが街を生きていないから。)で思い出したのは『この世界の片隅に』だった。さらに、2016年にヒットした邦画との関連でいえば、電車が走るのは『シン・ゴジラ』だし、『未来のミライ』の主人公くんちゃんの声を当てている上白石萌歌(演技が悪いとは感じなかったが、他の子どもキャラとのバランス調整は、もう少し気にするべきだったと思う。)は『君の名は。』のヒロイン役を演じた上白石萌音の妹である。つまり、あの年ヒットした邦画の全部盛りをしているのだ!……というのは半分冗談だが、ただこの映画が、様々な映画(や、アートや、テレビアニメ等々)の影響下にあるのは間違いないだろう。ここに書いた以外にも、僕が気付いていないような引用もあるだろうし。しかし、問題は引用やパロディそれ自体にあるわけではない。

視点を変えて、アニメとしての快楽、アニメーションとしてしか描けない表現の方に目を移せば、確かに、家族の内に起こる「小さな物語」を、野心的な表現や、独創的な演出で描いているのは分かるのだが、しかし、そのオリジナリティ溢れる精緻なアニメーションに、感心したり、感動したりということが、さっぱりできなかった。おそらくそれは、私が登場人物たちの物語に興味を持てなかった、「退屈」していたからだろう。私の「退屈」の中心にあったのは、(共同作業である映画製作を、あえて監督の名のもとに帰属させて考えるのならば)素晴らしいアニメーションの技術を使って表現されるのが、「細田守監督の意識と無意識」という、(僕たちに関係のない)作家の内面を見せられているからなのではないか、と思った。

細田守監督が、自身の人生をテーマに、物語を作っているということを考慮するならば(この記事で引用されているインタビューを参考にするならば)、監督が、子どもを持つお父さんとして、4歳児を主人公にしたアニメを作ったというのがストレートな解釈だろう。実際、劇中で「お父さん」は、近所の母親の前で”いいお父さん役”を演じてしまい、それは「見透かされている」と「お母さん」に言われるという、「分かってますよ」と言いたげなシーンもある(しかし、だとしたら、自分と同じ立ち位置の役を、今を時めく星野源にやらせているわけで、それはそれですごい)。だが、この映画の振る舞い、無邪気な引用やパロディ、突然絵柄を変えたり、過剰に盛り上げる効果音を付けてみたりという、その自由なギャグや演出は、自分の部屋を散らかし、無秩序に引かれたプラレールの上に電車を走らせ、小さな箱庭に世界を作るくんちゃんと瓜二つなのだ。

つまり、子どもを見守るお父さんの自意識で「お父さん」を描き、連綿と続いてきた「家」「家族」のつながりの大切さをメッセージする「意識の監督」が見守っている”つもり”でいるくんちゃんは、突然ファンタジックな世界を説明抜きで描いてしまったりして、それでいいと思っている、傍若無人な「無意識の監督」の写し絵なのである。このように、意識と無意識が分裂しながらも不思議なつながりを持って同時に表出されるこの映画をみていると、壮大な自己満足に付き合わされているように感じられ、物語に対して「知らねえよ」「どうでもいいよ」と思ってしまった。少なくとも私は。

「『作家の意識が、作家の無意識を見ている』ところを見せられる」という、なんとも出口のない構造のこのアニメーションは、宣伝に期待して見に行った人は肩透かしを食らうだろうし、私のように、なんの前情報もなく見に行った人は面食らうだろう。この映画は、ある映画監督、アニメ作家の、その作家性が爆発した怪作なのであって、そのように捉え、そうなのだと思って見るのならば、面白く感じられるのかもしれないが……ともかく、一旦終わりそうな雰囲気を醸し出してから、「まだ続くの?」となるエンドロールのBGMは、早く帰りたかった私の気分を害し、「本と雑談ラジオ」第68回で話していた古泉智浩氏と同じで、山下達郎を少し嫌にさせたのだった。