甘くて少しブルー

コラム「後藤の超批評」

あなたがたは、例えば、パーソナルな内省をしているだけの文章を読んだことがあるだろうか。読んだことがない?なぜか。それは、そんなことを書いても価値がないゆえ、そうした言葉の流通量が少なかったから(価値のある文章なんて書いてたまるか、読みたければ金を払え)。しかし、Internetは景色を変えてしまった。探せばいくらでも、のんべんだらりと書かれた文章に出会うだろう。だから、流通量が少ないのではなく、あなたがたの意志で、つまらないから途中で読むのをやめ、忘れちゃったからなんだろうな。おそらく。



まあつまりなんだ、こんな風に書いても面白くないのだろう。人が面白いと思う表現だとか、私には、さっぱりわからない。どうやったら面白いものが書けるのか、書かれつつあるこれが面白いのか、そもそも面白いとは何か。それに、あなたがたが「それ」を面白いと思っていることについても、私には、わからないのである。

言い忘れていたが、「おもしろネタ」とか、役立つ情報とか、批評性とか、あるいは壮絶な体験の告白であるとか、そういったものはこの先もない。私には、やる気がないからね。小説に対してのように寛容に接してもらえたらありがたい。小説に、前述したようなものを求めているかたとは、私は、分かり合えないだろう。

では、この文章では何を書くのか。これから書かれるはずのものを書く予定がある。私のパーソナルな内省を書いたものを。それを面白くしたいとか、読んでほしいとか、そういうことについて書くんだったか、いや、おそらく、書いたものを読まれたいと思うこと、それ自体を問題にしたかったのか、でも、読まれたくないなら、Internet上に出す必要がない。あなたがたに読まれたいはずだ。だが、そのために誰もが面白いと思うであろうものは書きたくない。そういうものが面白いと思えない。人気の小説に興味がない。TVの人気者で笑えない。人気の音楽は私を慰めてくれない。つまり、そういうことなのだ!

誰も読んでいないような本、YouTubeで再生数の少ない音楽や番組、リスナー数の少ないラジオにこそ、助けられてきたのではなかったか。これは、マイナー志向ということではない。誰しもが、なにかにおいてはマイナーなのであり、多くの人に伝わる表現では充足しない部分を持っている。私の中にある、沢山の人間とは共有できない何かに合った、自分のために創られたとしか思えないものが存在すること、そのことにこそ希望を見ていたのではなかったか。

これから書かれるはずだったものを書く必要がなくなった。どれだけの精力を傾けても、あなたがたに読まれないことや聞かれないことについて、あるいは、精力を傾けて「私の意見」をいう私にうんざりする私について。内省するまでもない。あの本のように、あの歌のように、限られた誰か(私!)のために、棚の片隅にあるもののように、そのようにあればよかったのである。

いくつもの「あの時」、そして「今」、私を生かすあの(この)表現のように、まだ見ぬ誰かのために話したり書いたりすること。大掴みな手からもれる感性、類型化されない個人的な苦難、癒されることのない存在の絶対的な孤独に向けて。私の発するすべての言葉は、そういうあなたのために、おいておく。

[MV] 真夜中のブルース / 洪申豪(hom shen hao)

私を生かす音楽。其實也沒什麼不好(悪くはないね)。