オンブレとロボ

コラム「後藤の超批評」

流行らない言葉を探している。

SNS全盛の今は、とにかく流行る言葉がいいとされているようだが、流行ればいいのか、売れればいいのか、もっと考えるべきだ。もっと言うならば、面白ければ何でもいいのかという気持ちもある。小説でも映画でも何でもいいが、面白ければいいというのは、私の美意識に反するし、フィクションは現実に影響を与える面があるのだから、悪影響を及ぼさないように気を付けるべきだ。

例えば、ある漫画を読んで犯罪を行ったとして、それは、全てその漫画のせいではない。しかし、まったく影響がなかったとはいえない。物事の真理は大抵、間にあるのであって、議論がかみ合わないのは、そのことが分かっていないからではないか。フィクションは影響を与える派は、全てフィクションのせいにして規制しようとし、影響を与えない派は、フィクションと現実を混同することは一切ないから何も手を付けるべきではないとするのはなぜか。それは、だったらいいなと思っているからだろう。

少し前に、ビジネス誌を出版している会社の面接を受けていた。受けていたから、しょうがないから、それを読んだ。そういう態度がいけないという話は、また今度するとして、そこで書かれていたことの大半に、願望が混ざっていたのである。私たちが読みたいものを読むとき、そこには必ず願望が入り込む。日本が素晴らしいと思いたい人は、本当であるかどうかよりも、日本を褒めているかどうかを気にして読む。そしてそこで、素晴らしければいいなという思いは、素晴らしいに変わっていくのである。もちろん、逆もいえる。願望は悪いことではない、しかし、それがそうであると取り違えられていくことは悪いことである。どうすれば、私たちは私たちの心に、つまりそうであってほしいとか、だったらいいなという気持ちに引っ張られずに、物事を見ることが出来るのだろうか。それは、不可能に近いのではないかとも感じる。

皆、自分は、自分だけは冷静で客観的で正しいと思い、あいつらが間違っていると思う。その監獄から抜け出すことは容易ではない。注意深い人も誤る。詐欺にあわないと自信満々の人の方が騙されやすいように。

そもそも、私たちは邪である。人間はもう終わりだ。そのどうしようもなさが行き過ぎないように宗教があったのではないかと考えたり、そのせいで起きた戦争のことを考えたりする。押し付けでない、一方的でない正しさ。イデオロギー的でない正しさ。イグアナが虫を食べるとき、その行為の正しさについて考えるだろうか。他の生物が正しさについて考えないからといって、人間が考えなくていい理由にはならない。人は正しさについて考えるからよい。

おそらく言葉のせい(おかげ)だ。言葉が、正義を教え、悪を教えた。私たちが言葉から自由になるとき、悪を忘れられるだろうか。正義も忘れてしまうだろうか。もしくはその世界の方が幸せだろうか。あるいは幸せという概念も言葉によって教えられたのだから、幸せかどうかはもう問われないだろうか。イグアナは自分の幸せについて考えるだろうか。

とにかく皆の心が平穏で長生きしたら幸せだ、という人間の感じはすごい。すごいというのは、尊いということだ。そんな風に思ったりしない他の生物よりすごい。

テクノロジーとかはどうでもいいのであって、皆が今日も生き、悪いことがなく、笑顔だったらよいというのが大事だ。誰かが幸福であることが自分の幸福であると思えたら、世界は今より良くなるかもしれない。

なんでこんなに当たり前のことを書いているのか、もう私には分からない。

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Posted by 後藤