ブログ「いらけれ」

ショッピングセンターの明るさが、陳列されている商品を買えと、人々の無意識に訴えかけている。ここへ来るまでに、大声で「何か」を叫ぶ中年の男とすれ違った。ここ一か月で三度目だ。このようなケースに出くわすのは。この国は、静かに発狂し始めているのかもしれない。

一人のときは、大したことができない。そのように、肝に銘じておくべきだ。一人のときに、悪を執行できる人間には、一目置かなければならない。目には見えない大きな機械に組み込まれたとき、我々は意志を奪われる。大きな機械に動かされている、ということが分からない。大きな機械に許される。歯止めがきかなくなる。

自分に飽き始めているのかもしれない。

私たちは、その外へ出ることがなかった。私たちを結び付けていたのは、その外へ出なかったという一点だけだった。中にいた数分の内に、一気に強まった雨は、夕立と呼ぶのが憚られるほどだった。ドアに付いているボタンに軽く触れて、その外へと出てみる。屋根の向こう、上空では、ずっと雷鳴が轟いていた。音も光も、これまでの人生で一番の勢いだった。恐ろしかった。足元の排水溝からは、水が溢れ出していた。この雨は、一生降り止まないのだろうと思った。

施設内にあるコインランドリーの大きな窓ガラスから中を覗いて、備え付けられたモニターに映し出されているのがテレビ番組ではなく、洗濯機の使い方の説明ビデオであることに驚いたり、設置されているガチャガチャの機械に、おもちゃではなく柔軟剤シートというものが入っているらしいことに驚いたりしていたら、小学生ぐらいの女の子が数人、ドアを開けて出てきて、大きな声を上げて戻っていった。その後、同じぐらいの男の子が数人、雷に大きな声を上げている場面にも遭遇した。両者の姿には、変わりがないように思えた。

閉じ込められている人々は、不思議な高揚感を顔に湛えていた。だから私は、そこにいる人々の顔ばかり見ていたが、十数分後にすっかり晴れて、帰って次の日に、別のホームセンターですれ違った人に見覚えがあるといっても、前日に見た顔と、すぐにはつながらなかった。その後、図書館へ行って本を返却して、借りたいと思う本がなくて悩んで、うろうろと彷徨った末に、『ラブという薬』を借りて帰った。

だいぶ涼しくなってきたから、毎日がぬるいのも仕方のないことだ。何も起こらないのが日常の幸福で、だから、書くことがないのは良いことで、それでも書くことにしがみついていくしかないと思いながら、この先も暮らしていくのだろう。

ブログ「いらけれ」

生きているという事実だけを手掛かりに生きている、結果的には。起きたことを知っている。そこで起きたことだけを知っている。起きていないかぎりは知る由もないし、眠っている時に意識はない。起きたことだけが起きた。そのようにして起きた。

言葉が壊れたおもちゃだとしても、おもちゃじゃないとしても、それで遊ぶことはできる。誤字や脱字は、何を表しているのだろうか。文法の乱れは、語順の間違いは。単なるミスが、新たな世界を作るのだとしたら。そう言うつもりではなかったの集積。

読み返す元気がなかった。初めはそうだった。記録について考えた。これは一つの記録なのだ、と思えば、間違いだらけだったとしても、むしろそれが正確な記録になる。あったことがあった。もう二度と会わないと思っていた人に、会ったことあった。会うべきではなかったから、合っていなかった。あったら、それは消せない。どれだけ書き換えても、あったことはあったのだ、どこかで。僕は、3階の男子トイレに逃げたから、会ったことは無かった。

文章を書くことがクリニックに似ていると思っているのは、人類で、ただ一人僕だけだと思いたい。祈りにも似ている。心が跪いている。新興宗教・作文教。書痙というものを知った。書痙というものを始めて知ったその月に、ラジオで書痙の話を聞いた。字を書こうとすると、手が震えて書けなくなるらしい。字を書く人の少なくなった現代では、キーボードを打とうとする手が震えるという症状を呈する人もいるようだ。祈れなくなったら、その人は、どう生きていけばいいのだろうか。幸い、この部屋にはボイスレコーダーがあり、でも、もし声を出すことも叶わなくなったら……。それならばもちろん、視線を使おう。

元気が出てきた。あの日の僕は、残暑という言葉に怒っていた。何が残っているというのか分からなかった。残っているなんて思えない存在感だった、暑さは。夕方まで千羽鶴を折るような心持ちで、たぶんそれらしい顔をして、手紙を書いていた。「傘を持っていくように」という忠告を、午後4時には忘れていた。
雨が降り出して、教会の入り口で雨宿りをしたというのは本当だ。大粒でばっと降って、少し弱まった隙を見て、スーパーマーケットに逃げ込んだ。いつも通りの店内で、新しい帽子を買おうか迷ったり、プラスチックの立方体に水が入れられていて、凍らせておくと、溶けださない氷になるという100円のアイディア商品を買おうか迷ったりしていた僕を襲ったのは、無数のゾンビだったというのが本当だったら、明日には続かない。

ブログ「いらけれ」

「だし揚げせん」を食べてます、と、いきなり告白して始めます。うーん、せんべいはウマイが、人生はどうも上手くいかない。日記は書けないし、応募したくなるような仕事はないし、頭は痛いし。昨日の日記だって、あんなの書くのに2時間もかけていてはいけないだろう。人生の無駄遣い。それでいて、ほとんどアクセスはないのだから、虚しくなっても仕方がない。せんべいがなくなって、僕は途方に暮れる。
お休みでもいただこうかしら。セブ島にでも行こうかしら。それは嘘だし、旅に出るつもりはない。海外旅行なんて、一度もしたことがない。人生が薄いのは、本当に良くないことだ。それが、本当によくないことなんだと分かったのは、昨日の日記を書きながら、知識も想像力も貧困だから、物語を肉付けていくことができないと感じたからだ。それまで、借りてきた本で、小説についての評論を読んでいたのも、大きかったのかもしれない。小説家というのは本当にすごいと思った。
「リカルデントガム」を噛んでます、って誰が知りたいんだ、そんな情報。この世にはたくさんの小説がある。僕は、オリンピックに100m走の代表として出場することは、どんな人生を送っても、なかったと思う。小説って、誰でも書ける気がするけれど、そこではもちろん、個々の能力の差というものは歴然としてあって、でもそれは100m走のように、はっきりと数字で結果が出るようなものではないから、勘違いをしてしまいがちだ。しかしさすがに、自分で書いてみれば分かる。同じスタートラインに立とうとすら思わなくなるほどの能力差。恐ろしくなるほどの才能の違い。
何も食べていません。それならば、書かなくて良い。まあでも、気が付けただけ良いんじゃない?という素朴な反応を、僕は、僕だけはしてはならない。このようにして、やっと僕の人生が始まったのだと理解しなければならない。こんなことでも、始めなければ何もなかったのだから。人生は長い、と思いたいが、その実、長かろうが短かろうが関係ない。終わるまで続くという点では、何一つ変わりはないのだから。死ぬまで持続する時間の中で、唐突に起動してしまった人生の中で、何ができるか……こんな、意味ありげで内容の無いことを書き連ねているのは、弱っているからなのかもしれない。頭の痛みがひどくなったせいで、気分が悪くなって2回吐いたし、さっき。いろいろ無駄だったな、せんべいを食べたこととか。

ブログ「いらけれ」

誰もそこにはいなくて、そのことにはっとしてから周りを見た。知らない内に、ずいぶんと遠くまで歩いてきたようだ。左腕を目の前まで持っていって、手首に巻いた腕時計に顔を近づけた。いつからか、あたりは暗くなっていて、ほとんど盤面は見えなかった。目を凝らすと、秒針どころか、分針も時針も無かった。

父の書斎の、壁一面の本棚の、文学全集の間にも、この小さな生物は暮らしていたのだろうか。印刷された文字といくつかの数式が、紙上に並んでいた。それは、図書館と呼ばれる施設で借りた書物だった。文字は、おそらく過去に、ここに生きていた誰かの人生について書こうとしているようだった。しかし、そんなことは土台無理だったのだろう。それらは、どれだけつなごうとしても、ひらがなとカタカナと漢字に、ばらばらに解けた。紙魚を気にすることもなく、本を閉じた。

押されてないはずのボタンが、勝手に押されたことになって、そもそも画面にボタンは無いが、表示された入力装置の上を、指が滑っていくことによって、文字は生まれると思っていた。しかし、天気雨によって付着した水滴の引き起こした誤動作が、そのようにしてこの世に生み出された偶然の文字が、まったく偶然に物語を紡いでいった。気が付いた時には、すべてが書かれ、書き終わっていた。これが、それだ。

寝そべっているそこは部屋ではない。閉じていたまぶたを開いた目には、天井にぶら下がる照明が映らなかった。右でも左でもなく、足の方に窓があるのかもしれない。光は、視界全体を均等に覆っていた。手元にあったボールを放る。そのようにして遊ぶ。顔の前に肘が出て、前腕が押し出され、握った指先でスピンがかかり、まっすぐ上がったボールが、胸のところに落ちた。生まれてから今まで、これだけをしてきて、そして、死ぬまでこれだけをするのだと思った。

どうしたら書いたことを本当にできるのか、私は、そのことばかりを考えている。書かれたことは、誰かに読まれるのだとしたら、"あ"は、単なる"あ"ではなくなる、という訳ではない。冷蔵庫に張り付いたマグネットのように、そこに"い"をくっつけることで意味を持つ、というだけではない。連続した文字は、一方向に流れる時間のなかで読まれることによって、やっと、何かになってくれる。ただし、文章と呼ばれるものは、冷蔵庫に張り付くマグネットにだって書かれているのであって、しかしそれは、読んだ者の本当にはならない。私によって繰り返されるボール遊びのような試行錯誤の末に、猿のタイプした無限の文字の組み合わせのなかから、始まってから終わるまでの全体が、私によって一として取り出される。そのような一は、仮に、偶然並んだ文字列とまったく同じだとしても、まったくもって同じではない。まったくもって同じではないとするために、私(=作者)は存在している。物語の、物語らしさのために、物語が私を生んだ。