ブログ「いらけれ」

(承前)これは、「弱者男性」とか「KKO」と呼ばれている人々の、代弁をしているのか、そうではないのか。よく分からないけれど、よく分かった。つまり、社会的なやり取りのところでは全然"男"として認められていないのに、存在が"男"であるだけで否定されているという感じが、彼らに憎しみを生んで、間違った矛先として女性が選ばれているのだろう、そして、そんな自分を肯定してくれる、承認してくれる"聖母"を待ち望む心性とつながっているのだと。分かったところで、だが。しかし、それならばなぜ僕は、精神の清潔さを保てているのか、それとも寝ぼけているだけで、誰かから見れば僕も、そちら側に足を踏み入れているのかなどと、考えてしまうね。考えたところで、だが。

こんなことを書いて、誰かのためになっているのだろうか?現実の複雑さを、僕個人を慰撫するために、縮減してしまってはいないだろうか。恵まれた立場にいながら、そのことに胡坐をかいている。しかし、ここにいない誰かは苦しんでいるはずだと、勝手に憐れみを抱くのも不遜だ。せめて目の前にあればと思う。でも、事態に直面しても尽くせなかった過去ばかりではないか。無力さに、心がヒリヒリする。

道端の、古びたクリーニング店を覗くと、何の役割を果たしているのか分からない物たちで、部屋が埋め尽くされている。その中で、じいさんが両肘をついて、手の平で頬を覆うようにして、乙女のような姿勢で、物憂げな表情をしている、その視線の先には、とても厚いテレビがあった。とても小さな画面の中には、何かのドラマが映し出されていた。

そういえば古びた団子屋の、蔦の絡まった外壁の上の方が、台風の次の日に壊れて、崩れて、近くを通る電線にもたれかかっているのも見た。なんで忘れていたのだろう。見た瞬間、忘れることはないだろうと思った、今日の夕方の美しいうろこ雲も、いつか忘れてしまうんだろうな。それは悲しいことだ。

そこにいることが避けられないのならば、せめて、一緒にいる人が必要だと思った。傷つくことも傷つけることも避けられないのならば、アフターケアと反省の機会が必要だと思った。コストをかけて誰が引き受けるのかという問題はあって、坂口恭平のいのちの電話を思い出したり。誰かがやらなければならないのだとしたら、そのように思い出せる僕が、何かしらの何かを始めるしかないのだろう。誰かの役に立てるなんて、立派な思い上がりだとしても。

ブログ「いらけれ」

どっかの国のアレンジ寿司に、「これは寿司ではない!」と怒る人のなかに、それっぽい衣装とお面で、海外の人が思う日本像みたいなものを嬉々として演じてしまうような心が、矛盾なく同居してるのかなあと、開会式を見ながら思っていた。あと、オリンピックの予行演習的に、どの演出が使えるか試してるのかなあ、だとしたらかなり失礼な話だよなあって思っていた。すべては想像だ。

だから何度も言っているように、すべてはフィクションだから詮索しないでほしいんだけど、いつかどこかで僕は、「女性として傷ついた」という言葉を聞いた。一瞬にして、いろんなことを思ったけれど、そのほとんどを、ここでは一旦置いておこう。僕は、男性として傷ついたことがないと、初めて気がついた(書くことによって初めて、「傷ついた」と「気がついた」が、とても似ていることを知る)のだ。このことについて考えていきたい。
「男って……」的な発言は、僕だって聞いたことがある。けれど、そうした言葉に出会ったときにいつも思うのは、その"男"のなかに、僕は入れてもらえていないということだ。大雑把に、属性について否定的に、そのようにして語られる"男"ではないということ。肉体的にも精神的にもマッチョとは程遠いし、抑圧者となれるような権力もないし(もちろん、対男性と比べて、女性に強く出ている自分を見つけることもあって。飲み会とかで。本当に死んだ方がいいなって思う)。あと、女性から性的な対象と見なされることで、周囲にいる男性も含めて、"男"として認められるという構造も、どうやら現実には存在しているようだが、当然僕は、そのような意味でも"男"ではない。そういうわけで、僕には"男"として傷つく資格がない、って感じがする。
しかし、生まれ持った肉体はどうしても"男"なわけで、夜道を歩いているだけで警戒されたり、近づくだけで怖がられたりして、つまり、誰かにとって僕は、生きているだけで威圧感があり、キモチワルイようなのだ(キモチワルイのは、努力で何とかなるのかもしれない)。そういうわけで僕は、この世界/社会に存在している"男"として、"男"であるだけで抑圧側であるといった言葉や、"男"であるだけで下駄を履かされている(実際そうだろう)といった批判に、傷つかなければならないようだ、本当は。これは厳しいなと、辛いなと、魂に冷たい風が吹いた。(ちょっと別の話。いつかどこかで、人を傷つけるような発言を許容するべきかと議論になった。しかし例えば、こうした批判にさらされても何とも思わない人が、正しく"男"なのだとしたら、傷つかないことと傷つけないことが、非倫理的な態度なのではないかと考えた。考えた僕は傷ついて、いわゆる"男"は、お構いなしにずんずん行くから悲しい)

長くなったから、また明日ね。そうやって、誰かと指切りした数と、約束を裏切った数と裏切られた数を、目を閉じて羊のように数えていれば、その内ぐっすり眠ってしまうだろう。

ブログ「いらけれ」

日常に対する吐き気のようなものがあって、辛いので眠る。液の切れた芳香剤がそのままになった部屋。心の重たさがのしかかって、水分が抜けて固くなる。何かを考えることもできない。考えたってしょうがないのかもしれない。増水していた川には、草が千切れて、あるところでは流れて、あるところで溜まっていた。そして、すべてが飲み込まれていった。世界はあれと同じだ。川に流されている。

この後、どうにかして希望につなげていくのか。そうしようと思っているのか。最後には救われるのか。分かり切っていることが嫌いだ。安全であることに腹が立つ。

これは安全な物語。安全な物語だと分かって見る物語。絶対に、登場する犬が死なない映画。『フランダースの犬』ではない。それは、ネタバレではないのだろうか。物語のなかで、自分にとってショックな出来事が起きないことは保証してほしいが、ネタバレはされたくない。そして、伏線は回収してほしい。回収されると分かっている伏線は、もう伏してはいないのではないか。傷つきたくないのならば、小説や映画、ゲームといったものに、触れなければ良いのではないだろうか。幸福だけを得たいというのは、虫が良すぎるのではないか。悲劇の起きない人生はない。犬が死なないように選んだ映画では死なない犬も、現実では、いつか必ず死ぬ。
いつか必ず、これは大きな問題になる。実際に、大学の講義で見せられたスライドが、映像が不快だと苦情を言われた、といったような話題を、時折ツイッターで見かけるようになった。講義ならばまだ、事前に説明することもできる。もちろん、そのように"心の準備"をさせてしまうことによって、失われるものもあるだろうが。衝撃を受けないということは、印象に残らないということでもあるのだから。例えば、幼少期に見せられた『はだしのゲン』によって、戦争というものは避けなければならないのだと知った人も多かろう。それでも、「子どもに見せるな」と言うべきなのか。誰も傷つけないために。
小説を読む読者は、どこまで同意していると言えるのだろうか。登場人物へ、思い入れを抱いてもらえるように、丁寧に描写し、家族を作らせ、幸福な日常を送らせた後に、とてもくだらない動機を持った犯人に殺させる。とても許し難い、作者による非倫理的な振る舞いは同時に、物語の源泉でもある。読者が憎むように、登場人物が、例えば殺された人物の子どもが、恨みを持つことによって、物語が動いていく。だからすべてを許せというのか?何をしたって良いのか?ショックで夜も眠れないんですけど?……うーん。

やっぱりむかつくな、胸が。

ブログ「いらけれ」

17日には、渋谷らくごに行って参りました。会場、すごい人だったなあ。太福さんが「佐渡に行ってきました物語」をやることにしたのは、大人気の神田松之丞さんが前の回で、裏口ですれ違ったことがきっかけだったそうなのだが、その超満員の回が、かなり押して終わったようで、開演を待つたくさんのお客さんと、帰ろうとするお客さんで、出入口が大混雑していた。
かく言う僕は、早めに渋谷に着いて、いつものラーメン屋さんでとんこつ醤油ラーメンとタダライスを食べて、ああ、美味しいけれど月に一遍が丁度良いなあなどと思いながら一服、それでも30分前には受付に赴いて、チケットを切ってもらって、階段の踊り場でゆっくりしていたから、困ることはなかったのだけれど。

昇々さんは、中学生マインド的なものが炸裂する新作でらしさが溢れていたし、太福さんは、ポッドキャストで聞いていたネタが生で聞けて嬉しかったプラス、たった三年間で変わってしまった、あの人との状況が織り込まれていて最高だったし、馬石師匠については、言葉では容易に語ることのできないすごみがあって、大声でも大げさでもないのに、静かに圧倒されていた。
特に印象に残ったのは、これまで見たことのなかった兼好師匠だった。渋谷らくごは二回目だという。上手いなあって思う人や、渋みや軽さを持っているなあって思う人はいるけど、そのすべてを兼ね備えているように感じたのは初めてだった。何度も聞いたはずの「天災」なのに、新鮮だった。

涼しいんだか、蒸し暑いんだか分からない帰りの、山手線は満員だった。高校生と思しき女の子が前に立っていて、手に持ったスマートフォンの画面が目に入った。LINEをしているようだった。いけないことだと思って、離そうとした目をくぎ付けにしたのは、彼女の指だった。
スマートフォンを両手で持って、二本の親指でフリック入力をしていく速度に驚かされる。画面が覗けない位置から、彼女の指の動きを見たら、ゲームで遊んでいると勘違いしてしまっただろう。その速さは、文章を考えるスピードを超えているとしか思えない。人間は、状況に合わせて進化する。一生懸命タッチタイピングを覚えた人々を、子どもの頃からフリック入力に親しんできた人が置いていく。内容は分からなかったが、高速で言葉を生み出せるという条件を活かすかのように、長くても数行の文章を、数秒の内に数個送信すると、相手からも即レスで数行が数個きて、というやり取りを繰り返しているようだ。あれだけ言葉があれば、それだけで充分なのだろう、スタンプは使っていない。新しいコミュニケーションの形を見た、という気がした。