ブログ「いらけれ」

エアコンを止めて窓を開けた部屋に、どこかの家の、おそらく同じような理由で開かれた窓から、カレンダーを破る音が飛び込んできた。そのようにして実感した八月の終わりの、思い出に浸る窓辺。

適当なところで、車から降ろしてもらった帰り道だった。僕は歩いていた。朝から始まった一日は、しっかりと夕暮れ時だった。車ならば、あっという間だった道程も、足を交互に出す移動方法では、時間がかかってしまうのだ、ということを改めて実感する。それでも、ご飯を食べたことや、それまでの時間が楽しかったことで、僕の中に貯まっているエネルギーを感じていたから、歩みを止めることはなかった。

川沿いの道の片方は綺麗に舗装されていて、ファンシーな服を着た子犬や、ピッタリとしたトレーニングウェアのジョガーたちは、とても快適そうに、その上を行っているというのに、僕と来たら、わざわざ逆の道を選んで、雑草たちが刈られた跡を歩いていた。刈り残された雑草はとても元気で、足を踏み出す僕の体重に負けない。それに、土の部分は少し水分を含んで、泥のようになっているから、非常に歩きにくかった。その時、今日は人に会うということで、買ってからまだ数回しか履いていない、一軍の靴を着用していることに気づいた。新しい靴だ、汚したくないなって思う。でも、心の中はそれだけじゃない。ドロドロにしてしまえって思う自分もいる。これが小説ならば、靴のことなんて書かない。でも僕の日々は、靴に泥が付くと嫌だという大人の普通と、汚したいと思う幼稚さの間にある。けれど、そういう機微はどうでもいいことだから、すぐに忘れてしまう。

靴のことを話そう。この夏に、僕が手に入れたサンダルは、裸足で履くと若干大きい、中敷きがずれてしまうといったトラブルもあったけれど、トータルでみたら満足できる買い物だった。ただし、つま先からくるぶしの下あたりまでを、小さな穴がたくさん開いたゴムで覆う形状のその靴には、購入前には予期していなかった敵がいた。それは小石である。
公園のように、下が砂になっている場合、僕の一歩で蹴り上げられた小石が靴の中に侵入し、足の甲にベルトで留める形の、よくあるサンダルとは違って出口がないから、靴を脱いで石を出すまで、ずっと、ちょっと痛いなあって思うことになる。これが小説ならば、こんな現実らしい現実は描けない。「想像できないことを、想像して書く」というのは、単純に矛盾しているから。だとしたら、日記にしか書けないことがあるということで、つまり僕は、そのようにして書くべきであるということだ。明日こそは。

ブログ「いらけれ」

「ぶり返すもの」は、それほどない。病気と、夏ぐらいではないだろうか。夏がぶり返したその日に、僕は友人から、ご飯を食べに行こうと誘いを受けていた。身に余るありがたさだ。紆余曲折あって、目的地は入曽の豚丼屋になった。豚丼は、とても美味しかった。

「読書会は、文化系の出会い系である」というツイートを読んだのは、いつのことだっただろうか。これは本当にそうで、しかし、それで良いという話をした。さすがに僕は、哲学カフェに男女の何かを期待してはいないけれど、「友達が欲しい」という気持ちは確かにあって、会が終わった後、話してみたい人に声をかけることも、毎月参加する動機の一つになっている。そういった諸々の積み重ねが、今日につながっているのだから、僕にとっては正しかったという他ない。

とにかく話をした。昨日聞いた人形メディア学についての話を、節操なく受け売りしたり、「Jリーグジャッジリプレイ」の話をしたり、僕から発信したものについて言えば、この日記で取り上げてないような話題は、そこまで出てこなかったと考えていただいて構わない。しかし、やはり会話というものが生み出すマジックはあって、これまで考えたことのなかったような何かが、自分の中から湧き出る瞬間が、たくさんあった。

(最近、興味があって「行きたい」と思っていたライブやイベントでも、足を運ぶのをやめてしまうことが多くなっていた。そういう自分を反省した。家にいればマイナスはないが、プラスもない。何かを得たいと思うのならば、とにかくやること。)

お笑いについての分析とか、話がスイングしていて楽しかったなあ。後、僕が見ていない映画(「天気の子」など)について、あらすじと感想を教えてもらうのも面白かった。そして僕は、見ていないのに、伝え聞いた情報だけで批判してみたり(それはもちろん、ある種の"冗談"として)。

しかし、書くことよりも話すことの方が得意な僕ですが、話すことには特有の切なさがあって、だって、あそこで話したことのほとんどを覚えているはずなのに、もう思い出すことができないんだもの。記憶するように話してないから、「この前、そんな話したね」という確認ならば、一か月後であっても、もしかしたらできるのかもしれないが、その詳しい内容とかニュアンスは、十数時間後の今、すでに抜け落ちてしまっている。それにあの会話は、そういうのが好きな誰かにとっては価値のある、非常に豊かな雑談だと、喋りながらそう感じていたから、何らかの形で残すべきなのかな、と思った。

それはともかく、僕はもう少し、しっかり暮らした方が良い。自分のできなさ。自分の生活でさえ、人に頼って維持している情けなさ。お店にマスクを置き忘れてくるうっかり。しっかり暮らしたら、僕はもう少し、面白くなるのではないか。そう思えたのは希望だった。だから、「何もかもありがとうございました」とは言わずに、そう思ったままで別れた。

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暇なので、NHKラジオの聞き逃しサービスを使って、いろいろな番組を聞いていたのだが、タイトルの一覧を見て、「何かありそう」と思ってクリックした『文化講演会』の「人形メディア学~人形文化を通して人間を考える」が、非常に面白かった。NHKが、いつまでアーカイブを残してくれるか分からないから、そこのあなたは今すぐに、このリンクへ飛んで、聴取を始めるべきだ。
講演を聞かなかれば、人形について思いを巡らすことなど無かっただろう、と思う。「人形」とは何か(別に哲学的な思索を始めたい訳ではない)、広義的な意味では、動物のぬいぐるみも藁人形も、あるいはキャラクターの着ぐるみでさえ「人形」だと言える(指人形の先にある"全身人形"として)。そのようにして捉えると、世界は「人形」で溢れており、我々が、いかに「人形」を求めているのか、ということを思い知らされる。
また例えば、ディズニーランドで動くミッキーマウスを見た後に、お土産で彼のぬいぐるみを買って帰るとき、私たちは、私たちの心は、それをどのように処理しているのか(キャラクターと人形の複雑な関係)ということや、あるいは、Pepper(ペッパー)のようなロボットとからくり人形の違いについて、などといったことも考えた。
(あと、演技後の羽生結弦のなるべく近くに、プーさんのぬいぐるみを投げ込みたい人のために、リンクのそばの、良い席に座っている人が、投球ならぬ"投プー"を代行してくれるという話は、コントの設定みたいな話だなあと思った)
面白いものを探す嗅覚を鍛えてきて良かった。講演者である菊地浩平氏の『人形メディア学講義』も読んでみよう。しかし、最近は本当に面白いものを引けているな。「もう無理」って思うほど、面白いもので毎日がパンパン。嬉しい悲鳴だ。

「ヨーロッパ企画の暗い旅」の公式スタンプである「旅くんスタンプ」を買った。LINEのスタンプって、初めて買う。スタンプは50LINEコインだったから、なんか、ちょっとでも応援になるならと思って、ポイントサイトで貯めた150ポイントを、150LINEポイントに交換して、よしよし、なんていい気になってたんだけど、2LINEポイントで1LINEコインというレートを知らなかったため、「旅くんスタンプ2」は購入できず、ぐええってなった。
スタンプって、みんなが知ってるキャラやモチーフのものだと楽というか、"許されている感"があるんだなあと知った。旅くんはさすがに、みんなが知ってるキャラとは言えないから、おずおずと送ることになった。「『それなに?』と聞かなければならないのか?」と悩ませてしまうのではないか?と悩むが、好きなスタンプは使いたいという子どものような心。差し出す側と受け取る側の、微妙な関係のなかで、共有するということ。「生きていくって勉強ですね、すごい」と、僕は思いました。

受像機では、それについて意見を求められるべき人の話が聞かれず、明らかに無知な人がべらべらと喋り続けている。何かがおかしい。何かがおかしくなってしまった。

ブログ「いらけれ」

一日記書くのに、一時(現代の2時間)かけていたら、人生終わっちゃうんじゃない?設定に無理ガールんじゃない?と思った。でもまあ、書くのは楽しいからいいや。人生からダイエットすべきなのは、これとは別の時間だ。


今年もやります! 原博実&上川徹がJリーグの気になるジャッジを徹底解説!【Jリーグジャッジリプレイ2019 #1-1】

「Jリーグジャッジリプレイ」が、今、一番面白いかもしいれない。Jリーグ見てない僕が言うのもなんですが。デカい誤審(浦和-湘南戦のゴール見落とし)が問題になっていたときに、番組が記事になったものは読んでいて、その存在は知っていたけど、ユーチューブで見られるなんて。しかも、Jリーグ公式チャンネルでアップされているなんて。素晴らしいことである。
そもそも、ルールというものが面白い。まず、知らない内に結構変わっている("キーパーチャージ"って、もう言わないんだ、へー。とか)。決まりは、決まりであるというだけで"固いもの"という印象を受けるが、実はグミのように弾力があり、変形可能なものなのだ。
そのようにして定められているルールは、サッカーのすべてを決めている。すべてが決まっていれば、何が起こっても白か黒か、完璧に判断できるかといえば、決してそんなことはない。出来事のほとんどは、「どこまでも微妙なケース」であり、反則のようにも、そうでないようにも見えるから、場面場面で審判はルールを解釈し、運用しなければならない(から、そうしている)。だからこそ議論の余地があり、だからこそ議論が面白くなるのだ。
という話と並行して、肉体的な問題がある。遠くにいる人は見えにくいとか、ボールと同じスピードでは走れないとか。そのなかで、どこにどう立って、どう移動するかという細かな技術論も好き。これは、僕の性癖。
審判たちについて僕は、絶え間なく、目の前で何かが起き続けているサッカーを、選手と一緒に走りながら裁くのは、とても大変なことなのだろうと、やや同情的な気持ちになってしまう。正しく裁定するのは当然で、間違えたら減点という立場に置かれているのも不憫だと思ってしまうし。
かといって、明らかな誤審は見過ごせるものではないということで、導入される映像という証拠(エビデンス)。現代の時代精神についてまでも、考えさせられるような優れたコンテンツなので、ぜひご覧いただきたい。

それで帰り道、前後にチャイルドシートを付けた自転車(子どもは乗ってなかったけど)の、ハンドルの両側に大きな買い物袋をかけた若いお母さんと、ゆるゆるとした白いシャツで、何も持たずバイクに乗っているあんちゃんを見た。なんか、象徴的だなって思った。