ブログ「いらけれ」

分かること(分かった気になること)より、ただ読むことの方が難しい。

もう面白いのかどうかも気にせず、はじめは面白いと思って読み始めた、保坂和志のホームで試行錯誤に漂うをずっと読んでいる。「面白いのか」と問われたら、「分からないが読める」と言う。

心を別の階層に置いて、世界や社会や現実を、その作品の中に見出すことは簡単だ。作品ではなく、現実を見ているのであって、さらにいえば自説の強化、あるいは主張の為に作品を使っている。

そう読めるからそう読む。それは、面白がるために、簡単な退屈しのぎに向かわない意思によってなる。

ただ観たり、ただ聴いたり、ただ読むことで、初めて考えるきっかけになると、そう思っている。

ブログ「いらけれ」

芥川賞・直木賞の発表があった翌日、ケータイ小説について考えていた。

そんな大仰なものではなく、ただ、考えていただけなんだけど。
どこへ行ったのか。

携帯電話で(ガラケーで)メールを読むように(それに近い気持ち)読む小説(のようなもの)として理解していたのだけれど、そもそもこれがあっているのか、どうか。

スマートフォン、SNS。だいぶ条件が変わって、文化も変わった。
でも、人はそんなに変わらないと思うが。
TwitterやLINEでのコミュニケーションに全て置き換わったのか、そうでないのか。
ケータイ小説に求められていたものは、いま何に求められているのか。

さっぱり分からない。

ブログ「いらけれ」

きっとまた、あらゆる主張が凡庸なことだけが今いたたまれない。
工夫は、そんなものは無駄だ。

平熱でまとめブログを眺めても、そんなに好きならそれもいいけど。
私は何をする。

怒りはそれこそ凡庸だしなぁ~。
なんとも弾けないなぁ~。

ブログ「いらけれ」

あなたはもう知っている。頁を捲った先にある予想外のどんでん返しを。
肝心なのは、どれだけ予想から外れていようとも、その予想外は、すでに予想の内であるということだ。

ここにはある種の共犯関係が存在している。「それでいい」という繋がり。

では、そうした退屈な事態から逃れるためには?