ブログ「いらけれ」

政治で生計を立てている人や、政治を語ることで自己肯定している人とは違う形で、それでいて政治的な人間でいたい。だから、言葉にしないが見ている。

いつも自分が高い位置にいって、「人間ってやつはコレだからダメだ」などと思う僕も、「こういう人がいるならまだすてたもんじゃないな」と感じる記事を読んだ。

平和へ祈りは余裕が生む。まだ平和を祈るくらいには余裕がある、ギリギリ。

自分の心が攻撃的になり他罰的になるとき、そこには被害者意識と余裕のなさを感じる状況があったりするものだ。

誰もが見誤ることなく、暮らしていければいいね。

ブログ「いらけれ」

今日は一日遊んでました。麻雀したり、ダーツしたり。こういうときに、自分の中にもまだ男の子が居るってことを再確認します。負けたくないと本気になっちゃう。たかだかゲームなんですが。この男の子性があることは少し誇らしいような感じです。ずっと持ってたいです。

ブログ「いらけれ」

いや、お前の心の弱さはどうなんだ……てな話にここからずれていくんで、続いてないんですが。

Twitterとかで、流れてきたり不意に目にすることになるつぶやきに一人憤っていたりする(そこでは何も言わないけど)。
玉石混交どころか、ただの誹謗中傷だったりするのだから、無視してしまえばいいのだけれど……。

とにかく何か言うのは簡単だ、つまらない言葉で溢れている。「批判するのは自由」なんて言うけれど、そういう人ほど発言に責任を負わずに適当だったりして、腹が立つ。

問題になるのは、そうした発言ではなく、それを見たときに平常心をいかに保つかなのだが、簡単には行かないのが人生。いまだコツがつかめない。こころおだやかに、すこやかにくらす、それができたらなぁ。

ブログ「いらけれ」

つまり、これからって話で、考え始めるとうーん分からない。知性に対する信頼のなさ。

知識があるということが、知識をもてる階級であるということと結びついて、ある序列を作っていたようなあり方はもうなくて、「それもいいけど、これでもいいよね」な相対がある。

発言はすべて私的な欲望から来ると考える私は、ルサンチマンからなる敵愾心が別の対象に向くことでしか解消されないと思っている。