ブログ「いらけれ」

昨日も涼しかったから大丈夫に違いないと、日焼け止めも塗らずに外へ出たら、雲の隙間から日が差して、やや暑かったけれど、心地良い風が吹いている。そして、それまでとは空気が変わっている。さっぱりしている空間は五月に似ている。蝉の鳴き声が弱々しくなっている。暦の上だけではなく、本当に夏が終わるんだな、と思う。秋には何をしよう。そう楽しそうに考えている僕を発見して、僕は元気になる。

これを書いたのは少し前のことで、甲子園も決勝が終わって、もう夏は、息も絶え絶えである。葬儀に参列している。見送っている。
この身体の不調は何だろう。毎晩毎晩パニック発作に襲われて、真夜中に目を覚ましている。このようにして書くと、本当に死んでしまったときに恥ずかしいから、今日まで書けなかった。死んだら死んだ、さ。と思えたので書いた。
カフェインのせいかもしれない。カフェインの過剰摂取は、パニック発作を引き起こす要因になると言われている。皆様にも、お気をつけいただきたい。コーヒーは、毎日何杯も飲んでいる。今日は、コーヒーを我慢しようと思った。我慢はできたが、振り払えない眠気のせいで、20時に寝た。
他人が嫌いだ。他人によって思い知らされるのは、自分のまともさだ。ずっと、自分が最後尾にいると思っていた。学園は、世界が閉じていたから。大人になって、そうではないことが分かった。比較的マシな自分は、狂った人々の隙間で暮らし、ストレスをためていく。
23時に起きたから、明け方に散歩しようと思う。幸いなことに、頭はスッキリしているし、次の夜まで眠くなることはなさそうだ。目前に時間があったから、アンケートに答えていた。その中の一つに、性格分析を受けなければならないものがあった。
回答を終えるまでに、10分程かかっただろうか。僕の性格は、仲介者型に分類された。詳しくはご自身で調べていただきたいが、分析サイトの診断結果には、理想主義者で創造的で、作家や詩人に向いていると書いてあり、そこまでは良かったが、さらに検索してみたところ、仲介者型は生きづらい人々だ、と書いたサイトが数多くヒットして、そんなことは言われなくても知ってるよ、現在進行形で感じているからね、と思った。
4時半の空は明るい。巨大な墓場の中へと進んでいった。木々の向こうの、遠くに見える空は美しい。そしてやはり、肌で感じる空気は涼しかったのだ。これならば、これからも歩いていけると思った。
作業服の男性は、トラックが何台も駐車されたビルの前で、車を待っているのか、歩道に佇んでいた。一握りの気まずさを胸に、その前をすり抜けた。ビデオ販売店に貼られたポスターの中央には、和菓子のようなものが写っていて、何だろうと顔を近づけると、下に書かれたキャプションに、「セルフプレジャー・アイテム」とあって、すべてを理解すると同時に、新たに生み出された表現に感心した。コンビニの前に置かれたごみ箱に、家庭ごみと思しき袋を、続々と押し込んでいく男。これが早朝の現実で、世界は、歩いていくには余りにも下らない。

ブログ「いらけれ」

問われているのは、惑星単位の時代傾向に対して、いかに挑発的でいられるか、挑発的に生きられるかということだが、そのことが分からない人は、死ぬまで分からないのだろうな。

人間が人間になって以降、有史以来という言い方をしてもいいけど、とにかく長い時間が経っていて、僕たちは、百年先というのは、まったく別の世界になっているように想定するけれど、歴史を見れば、百年というのは大した長さではなくて、百年後もおそらく人間は、これまでのように争いを好み、闘争を続けていることだろう。
人類が犯した過ちの記録は、歴史の記述の中に数え切れないほど収められているのに、人類が過ちを犯さないようにする/なるための知識や知恵が、ほとんど蓄積されていないように感じるのは、失敗から得られた教訓を誰もが知るように、誰もが心に留めるように、そうして伝えていくことに失敗しているからだ。
ずっとそうだったのだから、絶滅までこうなのだろうが、それでも、今生きている人間には、やるべきことがある。

装丁がかわいいからといって、犬が好きだから予約したわけではなかった。『この映画を視ているのは誰か?』も一緒に予約したからだ。『私は小説である』の話だ。何かきっかけがあったから、買ったというわけではない。内容に興味があったからでもない(どんな本なのか、詳しく知らないのに注文したから)。強いて言えば、著者に信頼があるというか、これまでにも、いくつかの著作を読んで面白かったから、それは、約六千円を支払うことに、十分値する仕事だったから、今度の本も読みたいと思った気がした。それでそうした、という自分の判断は、それほど間違っていないはずだ。

小学生の頃、僕たちのクラスでは、 5W1Hゲーム(とは呼ばれていなかった。なんつってたっけな。「いつどこで誰が何したゲーム」とかかな)がとても人気だった。それは時々、先生の思い付きのように始まって(いたが、レクリエーションとして、もともとカリキュラムに組み込まれていたのだろうか)、並んだ机の、縦の列に座る生徒たちが、いつ、どこで、誰が、何を、どうしたか、それぞれ発表していく。すごい笑って、みんな、すごい好きだったな。なんで、あんなに単純なことが、あれほど楽しかったのだろう。
このことを思い出したのは、「さまぁ~ず×さまぁ~ず」という番組で、さまざまな単語が書かれた紙のなかから、ランダムに二枚引いて、妖怪を作る(例:妖怪おじさんだらけ)という企画をやっていたからだ。
これらのゲームが生み出すものは、偶然が導くありえない言葉の並びであり、混ざり合わないはずの単語のカクテルが引き起こす奇跡だ。だから、あの頃の僕たちは、単に面白いからとか、笑えるからということではなくて、意味というものに強く縛られている僕たちの世界に、偶然と奇跡を導入してくれるから、あれほど熱狂していたのだろうと思う。

ブログ「いらけれ」

明るい話をしたいものだ。今のままでは虚無すぎる。自分の中には、ある日突然、地球が割れるというイメージがある。それでみんな死ぬ。一等真面目な顔をして、積み上げてきた書類が、組みあげてきた制度が、すべて無に帰す。大袈裟なように聞こえるかもしれないけれど、自分が身投げをしてしまう可能性は結構あって、そして、そこでは世界の終わりと同じことが起こっているのだから、決して誇張した表現ではない。誰かがビルから飛び降りる度に、地球は割れている。

生まれ直すことのできない人たち。連続性のなかで生きるしかない人たち。スマートフォンが、アップデートでただの板になっている間、少しほっとした。ツイッターばかり見てしまう。スマホの使いすぎが脳に悪影響を及ぼす、といった内容の記事を読んでから、見るのをやめようと思っているのに。将棋ばかり指してしまう。憑りつかれたように。しかし、最近将棋の方の調子が良くて、高い勝率を上げられているのは、なぜなのだろう。ほとんど勉強していないのに。生きているストレスで、心身ともに疲弊しているはずなのに。不思議。

人間の眼から、輝きが失われて見える時。人間は、己が何をしでかしているのか、まったく分かっていないのではないかと、とても賢い私は思う。人間が、偏見塗れの言葉を話すときの黒目が真っ黒。井戸の奥を覗き込んでいるようだ。だが人間は、自身の異変に気付くことができない。人間は、無謬を前提として、日々を過ごしているからだ。そしてこれは、他山の石としなければならない。果たして、いつ私の黒目から、光が消えているのだろうか。

毎日のように書いていると、自分自身でも忘れてしまいがちだが、当然のように書かなかったことがある。何かしらの意図があって、単に私的なことだからといった理由で、選択的に書かないようにしていることだってある。そうした取捨選択の積み重ねに、自分がやるべきことのすべてがあって、毎日が練習だ。鍛錬の先に何があるのかは、まだ分かっていないけれども。

無理矢理アラームで起きて、着替えて、アンケート調査のサンプル品を返送するために、コンビニまで行って、そのまま散歩へと移行する前に、お昼前だから、歩き疲れたらどこかのカフェに入って、ご飯を食べながらゆっくりしようと、本を取りに部屋へ戻った。それでやっと散歩を始めて、1時間程ぶらぶらして、いい時間になったから、グーグルマップで検索したものの、いつの間にか、周りに一つもカフェがない場所に来ていた。一番近いカフェよりも、家の方が近かったから帰った。という、オチのない暮らし。

ブログ「いらけれ」

仕事を探したいと思って探した。リニューアルしたというマイナビバイトが重い。設定していた検索条件が消えていた。担当者は頭がおかしいのだろうか。以前は、ログインしたらポイントがもらえていた。求人サイトで、ログインポイントは貯めたくないものだと思っていた。だって、毎日のように仕事を探しているということは、決まっていないということだから。貯まったポイントは、プレゼントの応募に使えた。いや、「使えていた」という方が正しく、いつからかプレゼントの募集はなくなって、貯まる一方になっていたポイントも消えていた。驚くほどの不誠実さだ。

日記が書けなくて、出かけることにした夕方。曇っていたのだから、傘を持っていくべきだった。歩き出して、引き返すのが面倒になった辺りで、雨が降り出した。

濡れながら、改めて心が引いていた。昨日のことだ、ふと、このサイトのサーバーとドメインの更新期限を確認しようと思った。期限は、まだまだ先だった。しかし、一年間で四千円もの金がかかっているという事実を再確認して、著しく機嫌が悪くなった。こんなことをしていて、何になるというのか。何にもなっていないから、毎日書き続けられるほど、暇。うすら寒くなってきた。

やりたいことはあって、東村山の情報をまとめたり、地元で店を開ている人にインタビューしたりしたい。ノウハウはあるのだし、いっそのこと、ここをその場所にしてしまおうか、とも思う。日記なんて、どこでも書けるのだから(さらに言えば、見せなくてもいいし書かなくてもいいのだから)。それに、地域密着型でワンテーマに絞った方が金になりそうだ。儲けるつもりなんて、さらさらない(という態度は取り続けたい)が。

いつまでここに住むのか、住んでいられるのか分からないけれど、住んでいるかぎりは、これぐらいの愛着は持っていたいと思う。やっぱり、この地で働くべきだろうかと、イオンでタウンワークをもらう頃には、全身がかなり濡れていたから、店内に入ることは控えた。誰か雇ってくれないだろうかと、ときどき光る空を見上げる。

雨は強くなっていたけれど、すぐにやむだろうと高を括って安全地帯から出た僕が、他にどんなことを思っていたか、何に注目していたか、告白しなければならないだろうか?雨である。濡れている。すれ違う。つまり、そういうことである。欲というのは、恥ずかしいものだ。とか言っている間に土砂降り。滝行のごとし。証拠写真を撮ろうにも、スマホの画面に付着する水滴のせいで、うまく操作できない。泣ける。

玄関に辿り着いたとき僕は、小学校の頃の、着衣でプールに入る授業を思い出した。シャツが拘束具のようだった。すべての布が、体に張り付いていた。人生を諦めないで、濃い色へと変わってしまったズボンも含め、全部着替えて一息ついたとき、頑張った自分を褒めた。そのようにして生きた。