ブログ「いらけれ」

何かのきっかけがあって、何かが起こるというのが、僕たちが持つ当たり前の感覚だけど、そういう単純さとは離れた場所に現実はあり、それらしいきっかけは、何かが起きた後に、改めて発見されているという話は、すでに、ここで何度も書いたからといって、そのことが伝わっていると思ってはいけない。大切な話は、耳にたこができるほどに繰り返しても、それでも足りないほどなのだから。

とても久しぶりに、東久留米のスーパーまで、楽天ポイントを貯めるという目的を兼ねて、歩いて行った。そうはいっても暑いとはいえ、そこまで暑くはないと言うべき季節になったからだ。
とても涼しい道すがらでは、草刈りが精力的に行われていた。放埓に伸びた草どもを秋の前に刈って、人間は、川べりを人間にとって都合の良い場所とする。作業員の操作する機械の刃が回って、どんどんと刈られた草は川のなかに落とされていって、淀みは緑でいっぱいになっていた。修羅場から逃げだしてきたバッタは、僕の靴の横幅より大きかった。
川上では、三人の少年が川遊びをしているが、そちらに草が流れていくことはない。そのようにして働く大人たちは、子どもたちにはどのように見えているのだろうか、などと考えながら眺めていたら、内の一人が足場から落ちて、腰から下が川に浸かった。恥ずかしそうに足場に戻った彼を見て、残りの二人が笑った。その声が街に響いた。
前の背中に虫がいる。気づいてないから、それは秘密。昔、プロ野球の珍プレーで、投手のお尻に蝉が止まる、というのがあった。あはは、って笑っちゃう。なんで気づかないかなあって、後ろにいる僕は思うけど、多分、僕の背面に虫がいたことも、そのことに気づけなかったこともあったのだと思う。でも気づかなかったら、それは、少なくとも自分の中では、ないも同じだ。こういうことって、少し怖いなって思う。
NHKラジオ「すっぴん!」の再開が嬉しい。歩いていく長い時間には、放送時間の長い番組がありがたい。それを聞きながら、川の、橋のところに設けてある広場のベンチで、家から持ってきていた「ちぎって食べるロールパン」を、同じく持ってきたお茶と一緒にちぎって食べた。少し残して、スーパーまで少し歩いて、折り返して、帰りも同じ場所で食べた。そこで、お茶を全部飲んだ。とはいえ残る暑さに対して、僕は準備万端だった。体感的には涼しくとも、気温がそれなりに高くて湿度もあって、その中を一時間半も歩いていたら、かなり汗をかいてしまうのだ、ということは、人類のために書き残しておかなければならない。
ラジオを聞き終わって、音楽を聞いた。ランダムの末、「ヒサシ.カリメロ」で髭になった。この日記に、最多登場ではないだろうか、髭(調べたら、GRAPEVINEの方が多かった。そうなのか)。髭だけを聞いていたら上空で爆音がして、いつも通り脳内では、目の前に飛行物体が落ちた。しかし街は、いつも通りだった。遠回りして、ファミリーマートに寄って、auで当たったクーポンで、モナカアイスをもらった。日常をキープしたいと思った、それはとても素晴らしいものだから。


髭「ヒサシ.カリメロ」

ブログ「いらけれ」

数日前から、夏の風邪を引いている。初めは、毎日部屋にいて、ずっとエアコンをつけているから、その風に当たりすぎたせいで、喉が痛くなったのかと思った。しかし症状は、喉の違和感だけでは収まらず、咳が出るようになった。同じ頃、いや、僕が知らなかっただけで少し前から、家族も咳をするようになっていて、夏風邪家族である。どうやら僕は、移されてしまったようだ。今では、咳の症状はだいぶ和らいでいて、ゴホゴホ言う回数はかなり少なくなったが、その代わりに鼻水が出るようになった。だからまだ、夏の風邪の中にいる。
「夏の風邪」というのは、語感が良いな。って思うのは、僕だけだろうか。冬の風邪よりは、深刻ではなさそう。でも、夏バテて体力が落ちている人だったら、重篤な状態になってもおかしくなさそう。つまり、いくらでも新たな物語を始められそうな言葉だということで、五・七・五の、どちらかの五に使っても収まりがよさそうだ。
五・七・五といえば、と、この文章は意外な方に転がる。僕らの街には、それを掲げることでどんな効果があるのか、さっぱり分からないような標語がたくさんある。誰も見向きしないのに、なぜかずっとある。
標語は、だいたいが五・七・五になっている(それではメッセージが収まらなかったら、七・七がつく)。読むと、そのリズムの良さのために、なんだかそういうものかなと思う。さわやかな選挙が、さわやかな街を作るのかな、とか(そういう標語があったのだ)。定型には、韻律には、ねじ伏せる力が宿るようだ。形式が、内容を存分に誤魔化す。
それを収集するのも良いだろう。あるいは分析対象としても面白いはずだ。新たな活動として、肩書として、「標語ハンター」を加えようか。そのように考えている。

昨日、日記を書き始めようと思ったら、サーバーが落ちていて、サイトが開けなかったことを書いていない。15分ほどで復旧されたものの、かなり勢いが削がれたのは確かだった。そういえば、ドメインの会社から、10月から消費税が上がるので、8月の終わりに値上げするというメールが来ていた。どうしてそうなるのか、僕にはさっぱり分からないが、早めに更新手続きをする。
言いたいことは、こうして見えているものは、日々の取るに足りない努力の先にあるということで、でもそれは、取るに足らないものだから、普段は言及しないし、ひけらかしもしない。サイトの維持だけが特別なわけもなく、あのビルも、お店も、道路も、誰かの取るに足らない努力に支えられているのだろうが、そんなことを考えて暮らしてる人はいないし、一々そんなことを考えていては暮らしていけない。世界とは、どうしようもなくそういうものなので、取るに足らない努力を続けている人は、誰も褒めてくれなくても、自分の中に誇りを見つけていくしかないのだろうな。

ブログ「いらけれ」


The Smiths – There Is A Light That Never Goes Out

日記を書かねばならない。と思って、考えることを妨げないから、聞きながらでも書ける音楽番組を、と思って、「InterFM897 Music Mix」の、8月24日の24時半から放送されていたものを、ラジコのタイムフリー機能を使って再生したら、3曲目にこれが流れた。久しぶりに聞いたけど、いつ聞いても心が動く。

僕たちは、優れた音楽家や小説家の、あるいは映画監督の、いや、何でもいいって言いたいだけなんだけど、芸術家である彼らの、政治的な意見や立場が、受け手である自分と著しく違うことに、怯えなければならない時代にいる。単純に、インターネットで発信する場所や機会が増えたから、というだけの理由ではない。彼らの作り出す作品のなかにも、政治的なメッセージが込められることが増えているように感じるからだ。でもそれは、インターネットを使うみんなが、びっくりするほど気軽に、政治的な発言をするようになって、何でも言いやすい空気が醸成されたから、政治的な意見の表明に、作品を使いやすくなったからなのかもしれない(つまり、インターネットが原因なのかもしれない)けど。
感性のアンテナで、電波をビビビと受信する側はとても身勝手に、「この作品は僕のために作られたに違いない」なんて大袈裟に感動して、作り手と大事な何かを共有した気になってしまうものだから、それはとても辛いことだし、作品を好きになった過去の気持ちまで、濁っていくように感じてしまうこともあるだろう。
でも、そこからが人生にとって有益な体験というか、彼の過去の作品のなかに、そういう思想を持つに至る萌芽がないか探したり、ある時までは同じ方を向き、とても近くにいた(はずの)彼と自分との間に、いつから、そしてなぜ、大きな川が流れるようになってしまったのかと考えたりすることは、癒されたり慰められたりすることよりも、もっと大事なことだ。

とはいえ、全員が間違えながら進む現世だから、不安に思うことなど一つもない。綺麗事ばかり言う僕も、アンケートサイトで当選した座談会で、ひどいデマを垂れ流す奴の人種差別的な発言を、聞こえないフリをしてやり過ごし、目の前のそいつに憎悪を抱いてしまった。理想主義者の毎日は、後悔と反省ばかりだ。

帰りの乗り慣れない地下鉄で、ツイッターを見ていて乗り過ごす。ぱっちり目だったのに、間抜け過ぎて驚く。高邁な理想を掲げる前に、まずは身の回りをちゃんとするところからだろう。

ブログ「いらけれ」

面白くないなって思う。面白くないことばかりだ、誰もいない部屋なのに。自分が一番つまらない。そのように感じてしまうのは、何もしてこなかった自分と、何もしていない自分を、自分が一番知っているからだ。そんな人間が書けることなんて、高が知れているって話だ。だから時間とか運命とか、世界とか社会とかをテーブルに乗せて、誰にでも言えるようなことを言って、恥ずかしい。罪深い一人遊び。
ただの日記に、何を期待しているの?って、でも毎日が、それについて書かれた文章が面白くないのは、自分への裏切りだと思う。楽しく生きなければならない。それは、地獄にいることを知って、この先も地獄が続くことが分かって、それでも生きることにした、いつかの自分との約束なのだから。でも毎日が、自分への裏切りになっていると思う。自堕落で寝ぼけて、その場をやり過ごしているから、こんな暮らしが続いているのだろう?
恐らくもう、自分ではどうすることもできない。正確に記すならば、一人ではどうすることもできないだろうということで、誰かに救われることにした。それは、まだ見ぬ誰かなのかもしれないし、すでに見知った間柄の誰かなのかも分からない。単数なのか、複数なのかも分からないけれど、必ず救ってくれるはずだ、その誰かがヒーロー/ヒロイン/アベンジャーズとなって。
こんな後ろ向きな"メン募(メンバー募集)"、かつてあっただろうか、という内容になってしまったが、革命のためなんて、大それたことは言わないから、主に僕を救うために、手を貸してくれる人はいないだろうか。いや、救ってくれなんて厚かましいことも言わない。ただ、話しかけてくれるだけでも勇気になるよ。もし、それならいいよって思ってくれたら、「なんでも箱」というページやメールアドレス、ツイッターから連絡をいただけると幸いだ。

GRAPEVINEの「Chain」が、一々染みてヤバい。

声にならないわずかなエコーを
拾いあげて
こわれそうなそれをどうやって
うたうのだろう

給水塔が高い。いつもは通りすぎてしまうけれど、その団地には"レトロフューチャー"って感じの形状の給水塔があって、ちゃんと見ると、やっぱり高い。子どもの頃から、ユニークな形をしたそれが好きだった。でもその頃は、それが何なのかは知らなかった。給水塔であることを知ったのは、大人になってからだと思う。だから、それを何だか分からないまま好きで、団地に住んでいる友だちの、部屋に辿り着くための目印としていた。あの頃は友だちが多かった。本当に引く手数多だった。誰とでも上手くやれていた。教室の、すべてのグループと仲良くやっている自分を、誇りに思っていた。しかし、自意識の病にかかった時から上手くやることができなくなってしまった。上手くやれたら、こんな暮らしを続けていないのだろうと思う。今よりも友だちが多いだろうし、彼女もいるかもしれない、仕事だって……とても愚かな僕は、変わってしまったけれど、給水塔は変わらない。心が揺れる。