ブログ「いらけれ」

いつものように、落語へ行った。だらだらと眠り続けて、起きたのは11時だったけど、そこから気合を入れて用意したら、なんとか間に合った。13時40分ぐらいには、会場に着いていただろうか。何事も気合が大事だ。心の底からそう思う。気合入りすぎで焦って、ハンカチを持っていくのと、日焼け止めを塗るのは忘れたが。

電車内で読んでいた『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』の17ページに、

遊びは、創造と破壊、創造性とニヒリズムが入り交じるダンスである。

という一文を見つけて、静かに興奮する。丁寧に論じるだけでは足りないよ、人文書はこうでなきゃ、と思う。
おそらくこれは、最後まで面白く読める本なのだろうが、しかし、図書館で借りてしまったので、二日後の返却期限までに読み切ることは難しそうだ(本文自体はそれほど長くないのだが、註が非常に多い。どれくらい多いかといえば、初めの方に置かれている「本書の読み方」で、註が何百個もあるが、それでうんざりしないでほしい、註を見なくても読める、といったようなことが書かれているほどだ。貧乏性の僕は、註を無視するのが苦手で、どうしてもチェックしてしまう)。懐に余裕ができたら、手に入れよう。

落語は面白かった。三遊亭圓朝の命日ということで、真景累ヶ淵だった。馬石さんは、一昨年の8月11日にも出番があって、宗悦殺しをやったので、その続きをと言ったが、あれ、俺それ見た気がするぞと思った。「ぷらすと」で生配信されていたそうなので、それで見たのかなあ。豊志賀の死、簡単には消化できない何かが、心に残った感じだった。
小せんさんのたがやとか、それはもう最高だったわけだけど、やっぱり僕は羽光さんの私小説落語〜お笑い編〜を語りたい。いや、内容を語るわけにはいかない(ネタバレは営業妨害だって聞くし)のだが、羽光さんのお笑い芸人時代を、少しだけとはいえ見ていたから、人生の伏線回収に涙が出た。登場人物は、知っている名前ばかりだった。90年代~00年代に、お笑いファンだった人には、ぜひ聞いてほしい話だ。

手持ちの携帯扇風機、本当に流行っているんだなあ、などと思いながら帰路。花小金井で降りて歩いた。完全に夕方で、とはいえ涼しい。自転車道の緑から、風が吹くと霧吹き。夕立があったことを、濡れた地面で知る。遠く飛行機の作る飛行機雲は、できたそばから消えていった。気力は回復したものの、流石に身体は疲れていたので、炭酸飲料とポテトチップスと棒アイスを買って帰った。僕の日曜日だった。

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蒸しタオルの話をしよう。電子レンジで作る蒸しタオルにすっかり魅了されてしまった僕だが、同時に悩みも生まれていた。それは、すぐに冷たくなってしまうことだった。冷たくなったタオルはタオルで、腕を拭くとひんやり気持ち良く、夏に丁度良いのだが……僕が求めているのは、それではなかった。
親のすねかじり、小金を持った男が次にすることは、タオルを温め続ける方法を金で買えないか探すことだった。(そんなもん、ないかあ)と思いながら、「タオル スチーマー」でグーグル検索すると、あっさり「タオル蒸し器」が見つかった。あるんだ。
クリックして楽天市場のページを開く。見慣れた機械が、ずらっと並んでいる。それは僕が、接客業のアルバイトに従事していたとき、温かいおしぼりをお客様へと出すために、いつも使っていたものだった。あ、あれ「タオル蒸し器」か。あれ、個人で買えるんだ。
あの機械に、おしぼりを詰めていたこと。熱々のおしぼりを取り出したり、もっと熱々になった、おしぼりを置いておく金属のカゴを取り出したこと。すべてを思い出したけど、その思い出をどうしたらいいのか分からないから、こうして日記に書いた。

最近は、テレビをよく見ている、意味もなく。そんで、NHKのBSで「シリーズ深読み読書会」という番組の再放送をやっていて、『進撃の巨人』が取りあげられてて、新井英樹、高橋源一郎、鹿島茂、鈴木杏という座組で、結構面白かったんだけど、これなら「マンガ夜話」は行けるくない?って思った。でも、出演者のこととかあるし、90年代にだけ咲くことのできた花という感じもするなあと、すぐに思い直した。無理かあ。
そんで、昨日見た「大悟道~これが千鳥の生芝居~」は、めっちゃ面白かった。舞台の外から突っ込むというのは、スタジオでVTRを見ながら、それに突っ込むことで笑いにするっていうのと、そんなに変わらない構造なのかもしれないけど、舞台上ではツッコミの声は聞こえないものとして進行するものの、どうしても影響を受けてしまって、ときどき含み笑いをしてしまうというのが、おかしさの源泉になっている気がした。

勢いよく、蝶がこちらに飛んできたと見え、驚いて顔を動かしたところ、目線の高さの鉄柵から高木まで、長く伸びた蜘蛛の糸に絡まった木の葉が、風に揺れていただけだった。そのこととは関係なしに運命とは、すべてに抗った先で、それでも覆せなかったもののことを言うのだと思った。だからまだ、ここにある敗北は運命ではないのだ。

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昨日の日記は、「最近はもう、辛いなあとため息をつく毎日を手元に置いて、お金持ちの家で飼われているシャム猫のように撫でている」と始まったわけだが、この文章はちょっとおかしい。それは分かるのだが、直すのも難しい。毎日=シャム猫、自分=猫を撫でるお金持ちというように、二つのものを同時に喩えているからだ。

こんなこと、書いたときには気がつかなかったのに、今日になって、昼間散歩をしているときにふと、(あの文章、間違っているのでは……)と思った。これは、人間の脳は不思議だ、という単純な話ではない。そこで思い出すということは、書き終えた時にも、何かしらの違和感があったはずで、でも、時間がないとか、一文に付き合うのが面倒くさいとか、さまざまな理由を付けて、無意識的に無視することにしたのだろうと思う。

自分にとって都合の悪い、目をそらしてしまいたいことを無理矢理抑圧しても、そいつは必ず、いつかどこかでむっくり起き上がって、あなたを苦しめることだろう。

わざわざ、この猛暑のなかを歩いていたのには理由があった。この頃は、楽天ポイントをゲットするという目的がなくなったので、とても適当に歩き回っているのだが、ある時僕は、7月から8月になったことを思い出した。だから、綿半スーパーセンターに行って(ことの経緯は「Exhibition」に)、イベントの予定をチェックしたら、この土曜日に将棋大会があると書いてあったのだ。

つまり、それに向かっていたわけだが、すでに、開始予定時刻の13時から30分ほど過ぎていた。なぜか。11時まで眠ってしまったからだ。夏の暑さが、知らぬ間に蝕む身体。疲れていることを、察知できない頭。結果、40分ぐらい遅れて店に着いたところ、将棋をしている人も、将棋盤も案内も、何一つ見つけることはできなかった。本当に、やっていたのかなあ。来月は、遅れないようにしよう。

弱っているからか、今日も頭が痛くなる。時間が余ったから、どこかへ行こうかとも思っていたのだが、頭痛が悪化してしまうことが恐ろしい。直射日光は遠慮がなく、日陰だけが頼りの小平霊園で、遠くで風になびく木々にピントを合わせながら、目を癒していた。

こうして書いている僕は今、電子レンジにかけたタオルを首にかけている。慢性的な肩こりは、温めた方が良いのだという。まずは目の疲れを取るために、「タオル 温める」で検索して、1分ほどチンした。理髪店で顔にかけてもらう蒸しタオルだ、と思った。非常に心地よかったと同時に、子どもの頃を思い出した。大人になってからは千円カットばかりで、そこでは蒸しタオルをかけてもらわないから、とても懐かしくなった。感傷的な、これは「ただの夏」だ。


けもの「ただの夏 」(MusicVideo)

ブログ「いらけれ」

最近はもう、辛いなあとため息をつく毎日を手元に置いて、お金持ちの家で飼われているシャム猫のように撫でている。ヤクルトスワローズがちょっとあり得ない負け方をしたりだとか、家の近くのイオンで楽天チェックというアプリの来店ポイントが貯まらなくなったりだとか、8月は向かい風ばかりだなあと思う。

一番こたえたのが、またプレミアリーグの話になってしまうんだけど、週末を楽しみに思いながら電子番組表で試合を探すが、どれだけ探しても放送予定がなかったこと。僕は、サッカーのことをそこまで好きじゃないから、J SPORTSが放映権を獲得できずに、DAZNが独占中継するということを、そこで知ったわけだ。

放映権で取引してビジネスしていくんだ、ということを考えれば、ずっと同じところで見られるわけがない。放映権の獲得競争をさせたことによって、リーグ側は実入りが良くなっていたりするのだろうから、悪いことばかりではないはずだ。

とにかく、2千円いかない程度のお金を、毎月払うほどではない自分が残念。何についても、そこまで好きになれないのが欠陥。もし、野球が有料のネット配信でしか見られなくなったとしたら、多分見なくなってしまうのだろう。

(一人で暮らし始めたら、事情は変わるかもしれない。テレビは買うとしても、ケーブルテレビには加入しないだろうし、Netflix+DAZNというのはアリだな。いや、AbemaTVでMリーグを見て、TVerでバラエティ番組の見逃し配信を見て、あとはYouTubeで……みたいな、タダライフを過ごしてしまいそう。ちなみに、一人暮らしの予定は無い。)

僕が、少しだけ知っているものはすべて、真夜中に学んだものだ。将棋も麻雀も、それまでにルールだけは覚えていたけど、番組内の解説のおかげで見方を知った。サッカーもゴルフもそう。目の前で起きていることを、(一部の解説者が)言葉で分かりやすく説明してくれていたから、その面白さを理解することができた。

不登校児は昼間に寝ていた。好きな深夜ラジオさえも終わってしまった明け方に、海外サッカーやゴルフのプレーが始まる。将棋や麻雀は、専門的なチャンネルで無思想に流され続けていた。インターネットはあった(まあ、動画サイトはなかったが)けど、人生の引き出しが少ない中学生には、エロ以外に何を摂取したらいいのか分からなかった。そこにあって消去法で選んだものが、僕を形作っている。

今となっては、好きなものしか見ないインターネットだ。これだけを使っているのは、どうにもまずいよなあと思うことはあって、でも、あの真夜中性を再び取り戻せないことも重々承知している。出会わなければ良かったとまで思うような、人生が狂ってしまうような何かを求めていながら、もう無理だろうなという予感で、胸の内は溢れている。

真夜中にボーっとサッカーを見られない世界は、むしろチャンスだ。これだけのチャンネルがあるのだから、その気になれば僕は、新しい何かに出会うこともできるだろう……なーんか、その気になってみたい気もしてきた気がするね。