ブログ「いらけれ」

ブログが重荷になっていて、追い立てられるように生きている。この日も僕は、朝から文章を書いていた。上手く書けなくて、時間がかかってしまった。朝ご飯は食べていたけど、もう正午を過ぎていて、これから食べることもできなさそうだと思ったから、エンゼルパイを詰め込んで、咽ながら外に出た。

歩かないで、電車を使う選択肢もあったが、その日は図書館に本を返して、新たに借りたいと思っていた。しかし、家を出た時点で結構ギリギリだったのだから、諦めればよかったのだ。結局、返却はできたものの、本を見ることはほとんどできなかった。トイレだけ借りることにしたのだが、トランクスを後ろ前に履いていて、開くところがなくて焦った。

この日は、毎月参加している「デモクラシーカフェ」があって、東村山駅に小走りで向かっていた。心配性なだけで、もちろん5分前には到着した。そこから、八国山の方へ移動する。「歩きながら考える」というテーマに合わせて、"考えることを考える"というある種メタ的な話を、移動しながら皆で語っていた。東村山市民的には、街の中ではやはり、地元についての雑談をしてしまいがちなところはあった。ただ、森の中に入ると、自然と(自然だけに?)深い話になっていった。

「考える」という言葉一つとっても、それぞれにイメージするところは違っていて、例えば、子どもに出された「なぞなぞ」に答えようとしているとき、日常生活の中においては、だいたいの人がこの行為を表すとき、"考える"という言葉を使うだろう。その他にも、簡単なおつりの計算や、昼ご飯の注文のときなんかでも、"考える"というけれど、しかし、確かに頭を働かせてはいるものの、その内実は、なんだか"考えているという感じ"とは、"ニュアンス的に違う気がする"と、思わないだろうか(考えてみてほしい)。いや、もちろん考えてるんだけどさ。

やっぱり僕は、さっき見た映画を、ワンシーンワンシーン思い出しながら批評的に分析しているときや、ある社会現象を目の当たりにして、なぜそうなっているのかと哲学的に思索しているときに、やっと"考えている"っていう気になる。それは、金になるわけでもないし、正解が見つかる類の問いでもないけれど、知識や感覚を総動員して突き詰めなければならないと、内なる声が聞こえてきてしまうから、やめられないもので、僕にとっての"考える"とは、そういうものなのかもしれないと思ったし、歩くことが"考える"ことに向いていて、考えていているときに"考える"ことができる気がするのは、隙あらばテレビやインターネットを見てしまう僕たちの暮らしが、こういう種類の"考える"から、遠くに置かれているからなのかもしれないと思った。

来月のテーマは「女らしい、男らしいってなんだろう?」だそう。すでに少し考え始めていて、思いついたこともあるけれど、それについては、またいずれ。結局、会が終わった後も残って、昨今のマナー問題について『文化系トークラジオLife』の完全な受け売りをしたり、帰り道に歩きながら喋ったりしていたら、家に着いたのは夜の7時で、歩数は2万4000を超えていましたとさ、おしまい。

ブログ「いらけれ」

少し気が楽になったという話からしようか、まあまあ落ち着いて、少しそこで、深呼吸でもすればいい。アルコールも飲んでないし、あらゆるドラッグの力も借りていない、それこそ精神安定剤すら飲んでいないのは、飲んだ方がいいのかもしれないけれどね。

考え始めると、常によく分からなくなる。猫が鼠を食べる。人間だけが肉を食ってはいけないというのは違うのかなーと、少し気が楽になった。まあ、植物を食べるだけで生きていけるのだとしたら肉は娯楽で、しらす丼に乗るしらすから見た人間のことを思ったり、ウニは生き物感ないなあと思ったり、植物には意思とかなさそうだから、草を刈るたびに申し訳ないと思っていたらおかしな人だ。

祭りの屋台で売られる亀である。掬われる金魚である。人々のアリナシはとても恣意的で、徹頭徹尾、決まりって不思議だなあと思う。「虫愛護」で検索をかけて、動物だけではなく、虫や魚を含めたすべての命を殺すべきではないという主張を、人間がいかに自然にとって害悪であるかということを絡めて、書いているブログを見つけた。ここまで行くと、ある種の極端な思想であり、イデオロギーだと思うけど、今ここの理屈が通っていないのは確かで、でも人間は、これから先も変わらず、論理的な正しさよりも、かわいさとか気持ち悪さ、あと病気の怖さとか迷惑を取るだろう。この前ベランダに蜂が巣を作っていて、追い払ったという話をここでしたけど、もしあれが、例えばあれがツバメの巣だったら、微笑ましい光景として受け止めていたはずだ(その後には、現実的な糞害などに悩まされるかもしれないが)。

これはつまり、部屋でパソコンをいじっているときに、腕に上ってきたクモを潰したことに対して、罪悪感を抱いたのか否か、という話なのだ。街は5月とは思えないほど暑い。それでも長袖を着ていったのは、まだ日焼け止めを買っていないからで、踏切を渡って、最初の角で左折しようとした車は、おばさんがそのまま真っすぐ歩くと思ったから、少しスピードを上げようとしたところで、こちらを向いたままおばさんは、急に道を横切り、驚いてブレーキをかけた運転手と、僕の目があった。僕と、運転手のおばさんだけが、おばさんに事故が起きかけていたことを知っている。一方のおばさんは、数秒前に怪我をしていたかも、もしかしたら死んでいたかもしれないということに、一つも気づいていない様子だった。僕は何か(この世の真実?)を見たと思った。

おじさんをおじさんと呼ぶように、おばさんをおばさんと呼ぶのがためらわれるのは、女性の方が、年齢で価値をはかられることの多い社会だからで、それは、はっきりと不当だと思う。

帰り道、僕があの車と同じコースを辿って、左に曲がろうとしていたとき、後ろから何かを言われた。振り返った先には、ピカピカとランプを光らせたパトカーが近づいてきて、イヤホンを外した僕は、それが詐欺電話などへの注意喚起であることを聞き取る。知らない番号からの電話に出るなというなら、もう電話じゃなくてもいいんじゃないだろうか。もう一度イヤホンをして、再生ボタンを押す。吹く風が涼しい夕暮れに、七尾旅人の歌う『虹』を聞いたとき、この世界/人生は、僕のためだけに用意されたものなのだと、明確に理解した。

ブログ「いらけれ」

ウィキペディアにしれっと嘘を書いたら、みんなが信じる本当になりそう。

この前買ったWWEの帽子についていたキラキラのシールを、いつもパソコンで作業している場所から見えるところにある、取っておかなければならない携帯電話とか銀行の書類を入れている段ボールの、蓋になっている部分に貼ってからというもの、常にとても気分が良い。

アンケートサイトで商品モニターというのがあって、なんか香味油みたいなやつを、わざわざ隣駅のイトーヨーカドーまで歩いて、地下でそれだけ買って、店員さんに怪訝な顔をされてから、炒め物がメインの用途であるそれを、冷凍チャーハンとかインスタントラーメンを作って、そこに投入するようになった。とにかく僕は、味が複雑であることを良しとしているから、そんなに美味しくなっているとは思えないけど、あとコショウの国の王子かってぐらいコショウ入れたり、ラー油を垂らしたりしている。次は、万能スパイスみたいなやつを買ってやろうかと企んでいる。

お金を使おうとしている。残高を見たら、消費欲が出てきた。ついに、しまむらで財布も買ったし(安いやつにしたのだが、それまでのものと勝手が違って、カードは全部入らないし、なのに、小銭で厚みが出てしまうしで使いづらい。でもさ、財布って買う前に試せないじゃん。カードや小銭を移したり、あまつさえポケットに入れたりできないじゃん。盗人感が半端なくなってしまうから。どうしたらよかったんだろうね)。ついでに、同じ西友で1400円のパーカーを買ったし。冷感とかいってサラサラの生地で、うっすいの。夏にいい感じよ、コレ。
少し前だったら買わなかったものを、自分が買うようになる。誰に気を遣うでもなく、ただただ自分が思うおしゃれに気が向いている不思議。靴も買いたいと思って、じゃあ、ここは一丁ネット購入を試してみるかと、その前に足のサイズ測るべえと、メジャーを巻き巻きしてみたところ、足囲激狭疑惑が発覚した。普通に生きていて測る機会がなかったので今まで知らなかったけれど、俺に合う靴、靴屋に無かった可能性が大。今度、ちょっと狭い靴買ったら、レポートするね。そういうのが、インターネットでは受けるらしいから。

僕は、まっすぐに伸ばした腕から指差して、強い口調で今言う。あなたはそれをやらなければならない。それと言われて思いついたそれを、すぐにやらなければならない。


高橋徹也「夕食の後」

なんか、首の後ろには香水かなとか思って、デパートに置いてあったテスターを腕に付けまくった僕は、やりすぎた匂いを気にしながら帰り道で、かっこよすぎて死んだ。

ブログ「いらけれ」

5月の渋谷らくごが不入りだったそうで、それは本当に惜しいこと(もっとみんな行くべき)だと思うんだけど、そのことを会のキュレーターであるサンキュータツオ氏がツイートしていて、それに付いたアドバイスのリプライを見て暗い気持ちになる。
「そんなこと、考えてないわけないじゃん」って、何年も続いている会なのだから、そうなっていることには、何かしらの狙いや、出来ない理由があるのではないかと、少しは想像しないのだろうかって僕が思うのは、タツオ氏の発言を追っていて、考えを知っているからかもしれない。
もちろん、一つの瑕疵のないものなんて地球上に存在しないので、不満を感じる人がいるのは当然だし、それを表明したり、「変えてくれ」とお願いするのはいい。僕が問題としたいのは、なぜか落語や興行や宣伝といったすべてを知り尽くしたかのように、教えて"あげようとする"人々のことで、彼らが自らの不明を恥じるようになるには?そして僕が、彼らのようにならないためには?ということを考え続けなければならないと思う。

結局、面白くないことや面白くない人に、かけらも興味がないということなのかもしれない。だからこそ、面白くない本や面白くない映画にぶつかって凹み、面白くない仕事をしながら、面白くない思いをしながら生きている。面白いことに出会うためでしかない人生。

J.LAMOTTA すずめ『すずめ』が届いて、僕は5月10日の日記「Monk」で、歌詞の対訳が付いてくると書いたのだけどなくて、驚いて、でも帯にはしっかり「対訳付き」と書いてあるから何かと思ったら、まさか「アーティスト名”すずめ”誕生秘話を綴ったオリジナル・ストーリー」が英語で書かれていて、その対訳のことだとは思わないじゃん!だって、それは付けてくれないと読めないもん!まあでも、音楽が良かったから、矛を収めるけど!

J.Lamotta – If You Wanna (music video)

気を引くために、とても安易に、あるあるを書いてしまうあなた(=私)から距離を置きたいと思うよ。それで私は、借りていた『哲学の誤読』を読んで、やっぱり哲学書はいいなあと思ったことを書くよ。なぜって、それは哲学書なんて読んで、時間や未来について新たな視点を得たところで、明日からの生活に役立つどころか、気の効いた小話にすらならないから!そこが素晴らしい、なんちゃって、本を読んで一番心に残ったのは、この記事のタイトルにもなっているマイケル・ダメットの論文「Bringing About the Past」(過去を引き起こすの意)の、この字面のかっこよさなんだよねえ。(「酋長の踊り」と「オズモの物語」は、気の利いた小話に使えそうだから、覚えておこうね私!)